オレンジ色の波が一定のリズムを持って砂浜に打ち寄せているのを、ぼんやりと眺めていた。潮風が部活の後の火照った頬に心地良い。
ジャリ、と砂を踏む音が聞こえて、首を回して肩越しに振り返った。
「ごめんね、待った?」
「押忍。少しな」
「ほんとごめん。氷室先生のお説教が長くて」
言いながら、美奈子はトスッと砂の上に肩から荷物を降ろした。彼女の愛器……、クリラネットとか言ったっけ。それは持ち帰っていないらしい。砂の上にあるのは、学生鞄だけだった。
「今日はちょっとヘマしちゃって、怒られてたの。新しく入ってきた後輩の相手ばかりしちゃって、自分の練習サボリ気味だったのお見通しだったみたい」
「クリラネットも大変だな」
「クラリネットね」
チラッと寄越された鋭い美奈子の視線に、軽く謝りながら訂正された言葉を口の中で復唱する。クラリネット、クラリネット、クリラネット。……クリラネット?
「ん?」
「んーっ!」
腕を大きく茜色の空へとあげて伸びをした美奈子は、その勢いのままボスンと俺の隣に腰を下した。
「嵐くんとこは、調子どう?」
「新入部員か? まずまずってとこだな。去年みたく、見込みありそうな奴がまた入ったんだ。無理やり入れたとも言うけど」
「まーた。悪い顔して」
答えずに、俺はさらに笑みを深めた。新名も2年になって後輩が出来た途端、だいぶ落ち着いてきていた。1年のしごきの半分は、新名に任せてある。設立してまだ2年。これからの柔道部が楽しみだった。まだ足りないものは、たったひとつしかない。
「なあ、美奈子。マネージャーの席、あけてるぞ」
「……おあいにく様。私は吹奏楽一すじなの」
美奈子がマネージャーになることを半分諦めていて、半分諦めていない俺は、横目で彼女を見やった。夕日で頬が微かに赤く照らされている。
「お前なら吹奏楽部の引退後でも歓迎するぞ。ウチは」
「でも、運動部より文化部のほうが引退は遅いんじゃない?」
「……それもそうか。兼部でもいいぞ?」
「私は吹奏楽一すじなんだってば。嵐くんが柔道一筋なようにね」
ついこの前、俺が大学でも柔道を続けると決めたことを含んで、美奈子はそう言った。
「でも、ありがと」
静かに微笑みながら、視線を俺から水平線へと移す。
「それにしても、3年間嵐くんと同じクラスになるとはね」
「な。俺もびびった」
「ほんとにね」
クスッと美奈子が肩を揺らした。彼女と同じ方向を眺めながら呟く。
「俺は嬉しかったぞ」
「え?」
「クラス表見たとき、自分のよりお前の名前先に探してたもん、俺」
瞳を丸くした美奈子は、はにかむようにして唇を小さく噛んだ。
「……そっか。へへ。じゃあ、また1年よろしく」
「押忍。こっちもよろしくな」
引いていく波を2人で眺めるのも、もう何度目だろう。
どちらからとも約束したわけではないのに、いつのまにか毎週水曜日の恒例行事となっていた。話題はその日によってさまざまで、面白かった出来事であったり、部活の愚痴であったり、ただ黙って沈んでいく太陽を眺めているだけだったりした。
でも、今日は少し違う。美奈子に聞きたいことがあった。
徐々に眩しさをなくしていく夕日に片目を細めながら、俺は口を開いた。
「お前はもう決めたんか?」
「何をー?」
「進路」
「あー……。進路、ね。しんろ」
繰り返して、美奈子は膝を抱えていた手を外した。
「まだ思案中……、かな」
その手で砂を掬い上げるようにして遊ぶ。彼女の指の隙間から、小さな貝殻と砂利が煌めきながら落ちた。
「ふつうに大学行って部活としての吹奏楽を続けてもいいけど、やっぱり……音大にも興味あるから」
「……ふうん。そっか」
「あはは。聞いといて興味なさそうな返事だなぁ」
「そうじゃねーよ」
体育大学に決めた俺とは、絶対に交じることのない進路に少しガッカリしただけだ。気を取り直して、俺は美奈子をまっすぐ見た。
「音楽好きなお前らしいと思う」
「……かな?」
「うん。お前がどっち選んでも、応援する」
「……ありがと。嵐くんが応援してくれるなら百人力だね」
「当然だろ。むしろ百じゃ足んねーかもな。千人力? そんくらいの勢い」
右腕を前に伸ばして力こぶを作ってみせると、美奈子は嬉しそうに声をあげて笑った。
「でも、ほんとに……」
笑い疲れたのか、小さくため息をつきながら美奈子が手を後ろについた。
その指先が、微かに俺の左手の親指の根本に触れている。俺の手がピクリと跳ねた。そのまま動かさないでいると、
「……そう、かも」
美奈子は尻すぼみになった声で続けた。彼女も手の位置は変えなかった。
微かにつながった互いの手に、お互いの意識が集中していることが痛いくらいわかる。
波の音だけが、静かに響いた。
「………」
左手をそっと宙に浮かせて、美奈子の指から遠ざける。
そのままゆっくりと下に降ろして、彼女の小さな手を包み込んだ。
今度は美奈子の手が、俺の手の中で微かにピクリと跳ねた。逃げていかないのを待ってから、さらに力を籠めて包み込む。
「……帰るか」
「えっ?」
驚いたようにこちらに顔を向けた美奈子の頬が赤い。唇が誘うように少しだけ開いていた。
「このままここ居ると、なんかいろいろ我慢できねーような気がする。俺」
「いろいろ……って?」
「わかんねーけど」
動悸が早くなっていくのを感じながら、視線を逸らして言えば、美奈子は心底残念そうに
「そう……」
と呟いた。そのくせ
「あとちょっとだけ。ダメ?」
なんて小首をかしげて見せる。
「ダメ」
「ほんとにダメ?」
「………ずりー、それ。ちょっとだけだぞ」
「やった! ありがとう!!」
ふわりと花が咲くみてぇに笑うから、俺もつられて笑ってしまった。
結局立ち上がるころには、どっぷりと日が暮れていた。
「送ってく」
片手で鞄を背負いながら言えば、美奈子が嬉しそうに手を握り返した。いつの間にか顔を出していた月を見上げながら、もっと長く一緒に居たいと思っていたのは俺の方かもしれないと感じていた。残りの時間を、少しでも長く。
海辺のグラフティ