顔いっぱいに風をあびながら、私は大きく口を開けた。
「あ〜〜〜〜〜〜」
 どういう原理かは知らないが、出した声は扇風機の風に跳ね返って盛大に震えた。
 ふくれっ面をしていた嵐が、ますます不機嫌そうに顔を顰める。その横顔に、震えていた声は萎むようにフェイドアウトしていった。
 お情けとばかりに貰ったその古い扇風機は、プレハブ道場にとっては唯一の冷房器具だ。私はそれを贅沢にも一人で抱え込んでいた。
 と、いうより。
「……俺に気ぃ使ってる場合じゃねーだろ」
 嵐が発したのは、道場の外で鳴く蝉と、彼がさらに近づけてきた扇風機の音にまぎれて、ほとんど取りこぼしてしまいそうなくらい小さな声だった。
 なのに、しっかりと私の耳に届いてしまうほどに、彼の思いが詰まっていた。
 体育座りをして抱え込んでいた扇風機のふちに、こつんとおでこをあてる。振動するそれに伴って、諌めるように私の頭も微かに震えた。
「うん……」
 ごめん、も、ありがとう、も、言えなかった。
 ただただ、倒れてしまった自分が情けない。
「嵐に心配かけるの、もう何度目だろうね?」
 プレハブの道場は熱が籠る。普通の建物と同じように捉えていたらダメだって、大迫先生にも言われていたのに。
 水分補給はこまめに行っていたつもりだったけど、どうしたって部員のみんな優先で、自分のことは後回しにしてしまっていた。
 ちょっとくらい大丈夫だろうと甘く考えて、部活が終わった途端に意識が暗く遠のいた。最後に見たのも、目を開けて最初に見たのも、ひどく顔をゆがめた嵐だった。
 いつもいつも、こんなことを繰り返している気がする。
「ほんと、ご」
「そんなん、どうでもいい」
 言葉をさえぎって、嵐はがらんとした道場を見渡した。
 無理に動かすより体を冷やしたほうがいいと判断した嵐は、他の部員みんなを帰して、ひとり私についてくれていた。
 救急車を呼ぼうと携帯に手を伸ばした瞬間、私の意識が戻ったらしい。
 大勢いると熱気があがると言って人払いがされた道場は、確かにいつもより涼しく感じられた。
 立てた膝にひじを乗せて、不機嫌そうに口元に手を当てていた嵐が小さく呟く。
「……なんもできなかった」
「え……?」
 私の視線を避けるように、嵐は腕に顔をうずめた。
「お前が目の前で苦しんでんのに、変われるもんなら変わってやりてぇのに、ただ俺は、見てるだけで」
 なんもできなかった。
 伏せられた瞼の下で、瞳が微かにゆれた。ぐっと、腕を抱える手に力が入る。
 まるで逃れられない恐怖から自分の身を守るように。
 そんな力の入れ方だった。
「美奈子」
「……はい」
「もう倒れんな。……頼むから」
 くぐもって聞こえた言葉を聞き終えるまえに、私は手を伸ばしていた。
 ぴくりと彼の背中が震える。かまわずに、そっと背中を往復させた。
 ほっとするような、温かいぬくもりが手のひらに伝わる。なんだか無性に安心するぬくもりだった。
「……俺は子供じゃねーよ」
 まるで子供みたいな、拗ねた口調で言われても可愛いだけで。
「私が安心するからこうしたいの。……いやなら、やめるけど」
 手は動かしながら小首を傾げる。諦めたようなため息と共に、嵐は大きな瞳を横に流した。
「いいよ、もう。お前の好きにしろ」
 ありがとう。口の中で呟いた言葉は、扇風機の羽音でかき消されたはずなのに、嵐は無言で頷いた。
「……けど暑ぃな」
「あ、そっか。ごめんね。扇風機、私が独占してるから」
「いい。そのままで」
 扇風機を嵐のほうへ向けようとしたところを遮られた。
 そうは言われても、彼の首筋からはポタポタとたまった汗が滴りはじめている。
「だったら、ほら。これでどう?」
 ぶるぶる震える古い扇風機を引き寄せて、嵐と私の間に置いた。寄り添うように体を近づければ、ちょうど顔面に風があたった。嵐の髪も風で揺れている。
「こうしたら2人で当たれるよ?」
「…………なんか、余計暑い気ぃする」
「え?」
 風を作り出す羽の音でよく聞き取れなかったので、顔を近づけて聞き返す。嵐の身体がびくりと震えたのが、隣に居たからよくわかった。
「お前……。ハァ………」
「え? な、なに?」
「なんでもねぇ。もっと来い。こっち」
「わ…っ」
 くいっと引き寄せられて、さっきよりさらに体が密着した。さ、さすがにこれはちょっと恥ずかしいというか、
「あ、嵐」
「なんか安心する。こうしてっと」
「そ、そう? でも」
「………あ〜〜〜〜〜」
 私の言葉を遮って、今度は嵐が声を震わせた。
 触れ合う肩先から、小さな子供のような優しい匂いがした。干したての布団のような、太陽の匂い。
 大好きな、嵐の匂い。
「………あ〜〜〜」
 大きな音を立てて鳴りはじめた心臓のドキドキをごまかしたくて、私も扇風機に向かって口を開いた。
 震えながら伸びた声が重なる。
 横を見やれば、柔らかく目を細めて、嵐が口元を緩めていた。
 ようやく笑ってくれたのが嬉しくて、私はさらに大きく口を開けた。
ふたりせんぷうき














弱気な嵐は難しい。