陽だまり


 始業のチャイムが鳴ると同時に教室のドアがガラリと開いた。その大きな音に思わず顔をあげる。
「っ!間に合ったか!?」
 転がり込むように教室に入り込んできたのは、嵐くんだった。肩で大きく息をしている。
「セーフ! まだ大迫ちゃん来てねーよ」
「不二山はよーっす! 良かったな!」
 クラスメイトの喝采に笑顔で答えながら、嵐くんは席に着いた。
 私の席から右斜め3つ前。その後ろ姿を思わず凝視する。………なんて可愛い寝癖だろう。
 ぴょこん。
 と、普段はつんつん逆立っている髪の毛が一部、横に跳ねているのだ。
 ぴょこん。嵐くんが頭を少し動かすたびにほわほわと揺れるその髪が気になって、日直の号令にも気が付かなかった私は、一人立ち上がりそびれて怒られた。
 振り返った嵐くんと目が合う。彼は大きな目をくりくりとさせて、口だけでニヤリと笑ってみせた。正面からも見える、ぴょこんを携えて。
 くそう。あんなに可愛いなんて反則だ。


「よ。朝はなにボーっとしてたんだ?」
 2時間目と3時間目が始まる間の休み時間。
 後ろの髪を横に飛び跳ねさせたまま、嵐くんが私の机の前に立った。手にはもう購買で買ったのか、やきそばパンが握られている。
「おかげで俺が遅れそうになってたこと、大迫先生にバレずにすんだけどな」
 サンキュ、とパンにかぶりつきながら言った。
「座って食べたら? 行儀悪いよ」
「ああ。朝メシ食いそびれてさ。すげえ腹減ってんだ、俺」
 前の椅子に腰かけながらかぶりついた2口目で、パンはすでに3分の1くらいしか残っていない。
「昨日そんなに遅かったの?」
「ん。録画した試合見てた、柔道の。気付いたら12時過ぎてた。そんでさ」
 チラリと上目遣いで私を見る。何度か受けたことのあるこの視線。瞬時に意図を理解した。
「4時間目のオーラルの宿題?」
「頼む。うつさせて?」
「いいけど」
「まじで!」
 パァっと華やいだ嵐くんに、私はニヤリとほくそえんだ。
「待ちたまえ少年よ、世の中そんなに甘くない。この世は等価交換の原則があるのだよ」
「と、トーカコーカン? なんだそれ。つーか誰だ、おまえ」
「等価交換。言い換えると交換条件があるの」
「つまり?」
 パンならもう食っちまったけど、といいながら嵐くんは手のひらを見せた。さすが。食べかすひとつ残っていない。
 でも私が欲しいのはもちろんパンなんかじゃない。
 かぶりを振った私を見て、嵐くんが喉をこくんと上下させた。一緒に小さく動く、ぴょこん。
 私のお願いは、これだ。
「その寝癖、触ってもいい?」
「………は?」
 そんなんでいーんか、と大きな目をさらにくりくりと大きくさせて嵐くんは言った。


「髪の毛、思ったより柔らかいんだね」
「そーか? 自分じゃわかんねーけど…」
 頭をちょっと前のめりにさせた嵐くんは、大人しくされるがままになっている。
 伏せた睫毛も思ったより長いなぁ、とかつむじは右巻きなんだなぁとか思いながら、ほわほわと伝わってくる感触を楽しむ。色素の薄い髪は、柔らかくて心地よかった。
 ぴょこんと跳ねた寝癖部分は撫でても弾いても戻らない。柔らかいくせに頑固。なんだか嵐くんみたいだ。
 ツンツンと立つ髪は地のくせ毛みたいで、こちらも撫でても戻らない。
 何度も手を往復させる私に痺れを切らしたのか、下から不満の声が上がる。
「なぁ、まだ?」
「もうちょっとだけ」
 そっと優しく、慈しむように撫でる。人の頭を撫でるって、こんなに気持ち良いものだったんだ。
 それとも、嵐くんのだから気持ち良く感じるのかな。わからないから、今度ミヨちゃんにお願いしてみようか。
「……なぁ」
「ん〜、もうちょっとだけ」
「じゃなくて、おまえさ」
「ん?」
 瞑っていた目を開けて、上目遣いに嵐くんが言った。
「他のヤツにもこんなことしてんの?」
「え? ううん。初めてだけど」
 今まさにミヨちゃんの頭撫でてみようとは思ったけど、とは言わない。
「……ならいーけど」
 言って、再び目を瞑る。その頬が微かに赤い。…ような気がする。気のせい、かな。
「他のヤツにはゼッテェすんなよ」
 ふてくされたように呟いた。撫でる手が、思わず止まる。
 違う、止められた。
「嵐く」
「……なんか、変なかんじ」
 掴まれた手が熱い。
「小せぇ手だな」
 掠れた声に、今度は私の頬が赤くなった。
「も、もういいよ! ありがと!」
 べりっと手を引き離し、ガタガタと机を揺らしてオーラルのノートを差し出す。
「宿題、最後のページだから!」
 しまった。声も不自然に上擦った。
「お。どうもな」
 何事もなかったかのように受け取って、嵐くんは小首を傾げた。
「ん? 顔、赤ぇぞ」
「なっ! あ、嵐くんのせいだよ!」
「そうか? なんかしたか、俺」
 口をパクパクさせて答えかねていると、運よくチャイムが鳴った。3時間目の始まる合図だ。
 前の席の子が戻ってきて、嵐くんも椅子を退いた。
「どうもな」
 この授業中に写すのであろう。もう一度お礼を言った嵐くんは、涼しい顔で自分の席に戻った。
 くそう、と唸る。私の心臓はまだこんなにドキドキしているのに。
 号令の合図で立ち上がる。ぴょこん、と跳ねたままの寝癖が揺れる。子憎たらしいほど愛おしい。
 ミヨちゃんと、嵐くん。比べなくたって、わかってしまった。
 陽だまりのようなあの感触を忘れないように、私はきゅっと手のひらを握りしめるのだった。














バンビのターンだったはずが、いつのまにかに乗っ取られてました。アレレ。