分厚い本を読み終えた。946ページにも及ぶ大長編だった。
 一気に読み進めてしまったせいか、印象的なシーンしか頭に残っていない。
 こんなことがあって、そんなふうに結末を迎えた、ぐらいの。そんな程度の感想。
 心に響くセリフとかそういったものはなかったように思う。たぶん。おかしいな。世界に名だたる名作のはずなのに。
 ため息をついて時計を見ると、午前3時を少し回ったところだった。もう一度、今度は深いため息をつく。ああ、肩凝った。
 本を読むときにだけかけている眼鏡を外した。もう寝なくちゃいけない。嫌でも朝は来るし、そしたらまた仕事なんだから。
 携帯でアラームをセットする。もしかして、と思った期待は裏切られて、着信もメールも来ていなかった。
 電気を消して布団の中にもぐりこむ。秋の夜長にはまだ少し早い季節。微かに残る蒸し暑させいか、すぐには眠れそうにない。
 暗闇の中、天井を見つめた。さっき読んだばかりのラストシーンを思い返そうとして、なんにも思い浮かばなかった。おかしいな。結末って結局どうなったんだっけ。主人公とヒロインは生きて元の世界に戻れたんだっけ。一番重要なはずのことなのに、それすら思い出せなかった。
 その大長編は、惹きつけられるほどわくわくする展開ではなくて、別に今日中に読み終える必要も、読み終えたい欲求もなかった。ただ、結果的に読み終えてしまっただけだったのだ。
 そっと目を拭うと、涙で濡れていた。いつの間に流れ落ちていたのか。
 本当は、他の事で頭がいっぱいだったのだ。物語の内容が頭に残っていないのは、面白くなかったからじゃない。
 読みながら、でも心ではずっと、訪ねて来てくれるはずの人のことを思い描いていたのだ。
 結局現れなかった人のことを、待っていたのだ。
 こてんと寝返りを打った。もし隣に彼が寝ていれば、顔があるであろう位置を睨みつける。
 来れないならせめて、来れないと一言でも連絡が欲しい。
 行けるかもしれない、なんて期待だけさせて、待たせるだけ待たせおいて。あげく、裏切る。なんてずるいの。
 恨みつらみを唇で噛み締めながら、ぽろぽろと涙が頬を伝った。
 薄暗い世界の中、滲んで見えてくるのはチェストの取っ手。設楽先輩の寝顔じゃない。
 無理やり目を閉じた。強く強く閉じた。こんなことをされても、どうしたって嫌いになれない人の顔が浮かぶ。
 なにより、あなたに会えなかった今日がつらい。 
 会えると思った日に会えないのが、つらい。
 目を閉じていても、流れる涙は止まらなかった。


 携帯のアラームが鳴る前に目が覚めた。窓を開けっ放しで寝てしまったらしい。ひんやりとした空気が部屋を包み込んでいる。夜は多少寝苦しくても、朝の空気はすっかり冷え込む時期になっていた。
「………っ!?」
 もう少し眠ろうと閉じかけた目を見開く。
 呼吸が止まった。
 まさか不法侵入者が、自分のベットでこうも堂々と寝ているとは。
 眠りに落ちるまえに睨みつけた、まさにその場所に、穏やかな寝顔があった。
 いつのまに来たんだろう。首をめぐらせて時計を確認すると、当然ながら最後に見てから数時間しか経っていなかった。
 バクバクと早鐘を打つ心臓の中で、ふと思い出した。
 そういえば彼には部屋の鍵を渡していたのだった。
 使われることなんか一度もなくて、すっかり忘れていたけど。
 いつの間にかに自分の頭の下にあったはずの枕は、彼の頭の下に移動していた。かわりに差し込まれていた温もり。
 腕、痺れるのに。
 じりじりと頭を動かして、伏せられた長い睫毛に口付ける。
 あと数十分したらお別れだ。私が家を出ている間に、彼はまた異国の世界に戻ってしまう。
 携帯のアラームをオフにして、私は再び目を閉じた。
 私を起こすことなく私に会いに来た彼の為に、彼を起こすことなく彼と別れようと決めて。 
 せめてそれまでは、待ち望んでいた幸せに思う存分浸かっていよう。
 
 
ほらね、切ない。
(会えても会えなくても)


 それから数分後、彼が私に口付けていたことを私は知らない。

涙濡