今日もきっと寒いな。
目を覚ますと同時に、美奈子は小さく身震いをした。鼻腔から入り込んだ空気が冷たすぎたせいだ。
朝ごはんは何食べよう。
考えながら寝返りを打つと、いつもとは違う温かみがあることに気が付く。
設楽が、隣で細い寝息をたてていたのだ。
「……っ」
一瞬驚きで喉をひきつらせた美奈子は、困惑しながらも思考をめぐらせ、昨夜遅くに突然設楽が現れたことを思い出した。
ウィーン留学中の設楽は冬期休暇に入るなり、まっすぐ美奈子がひとりで暮らすアパートを訪れていたのだった。
じわじわと喜びが込み上げてきて、美奈子の両手は疼いた。可愛い顔をして眠る恋人が愛おしく、力いっぱいに抱きしめたいと無意識にも主張しているようだった。
長時間のフライトでよほど疲れているせいか、美奈子が身じろぎをしても設楽は起きる気配が全くない。
いまなら思いっきり、抱きしめられる。
実行に移そうと手を伸ばしかけた美奈子だったが。
普段、眉間に皺ばかりよせている設楽が思いもかけずあどけない顔で眠っているのに気が付いた。
起こしてしまうのを躊躇うような、穏やかな寝顔。
ぐっと唾を飲み込んで、美奈子は設楽を羽交い絞めにすることを諦めた。
先輩が自然に起きるのに任せよう。美味しい朝ごはんを用意して、お腹も幸せになったらめいっぱい甘えさせてもらおう。
そうと決めたら朝ごはんの用意をしなければ。
いつもなら目覚めてから最低30分は布団の温もりを楽しむ美奈子だったが、何の未練もなくベットからするりと抜けだした。動きを最小限に留めたせいか、顔を覗き込むと設楽は相変わらず穏やかな寝息を立てている。
「にしても先輩、来るなら来るって言っといてくれないものかなぁ」
美奈子の会社も一昨日から冬休みに入っている。もし自分も実家に帰っていたらどうするつもりだったのか。
額にかかった前髪をそっとどけて、整った顔を眺めた。
そんなこと思いもつかなくらい、早く私に会いたかったんだってうぬぼれちゃっていいのかな。
日本とオーストリア。距離にして約9,000キロ。2年前のちょうど今頃、留学を告げられてから思わずネットで調べたその数字は美奈子にとっては天文学的なそれに近かった。なにしろ、日本列島の長さが約3,000キロなのだ。その3倍とは。目の前が真っ暗になって頭を抱えたのを今でも覚えている。
悩みに悩み、それでも設楽と別れたくなくて、遠距離恋愛をすることに決めたのだった。
しかし覚悟を決めたものの、時差を含む遠距離は想像を遥かに凌ぐほど苛酷だった。その上設楽の優しさは見えにくい。愛情なんてなおさらだ。
どうしようもなく不安になって、2年前の決意を覆そうと思ったことは数しれない。
それでもやはり別れられないのは、昨夜の来訪が予期せぬものであったにもかかわらず、玄関の扉を開けると同時に抱き着いてしまうくらい設楽のことが好きだからだ。力強く抱き返しながら「ただいま」と設楽が言ってくれたのが、どうしようもなく嬉しいからだ。
昨夜のキスを思い出して、美奈子はそっと唇を抑えた。心がじわりと熱を持つ。今なら何だって出来そうな気がする。
「……よし、美味しい朝ごはん作ろ」
海外帰りの設楽が、まっすぐうちに来てよかったと思えるような、そんな朝食を作りたい。
起きてすぐ普段なら自分が羽織る半纏を設楽の布団の上に被せてから、美奈子は音もなく寝室のドアを閉めた。
カップに温めた牛乳を注ぐと、コーンスープの粉末が溶かされて、湯気と共に甘い匂いが室内を満たした。
全ての支度を整えたのと同時に、カチャリと寝室のドアが開いた。続いて設楽の顔が覗く。眉根を寄せた表情は不機嫌そのものだったが、くんくんと鼻を鳴らすと
「良い匂いだな」
と小さく笑みを広げた。
「コーンスープか?」
「はい。おはようございます」
笑顔いっぱいで美奈子が言ったのに対し、設楽はなぜか一瞬で不機嫌な顔に戻った。
「あれ? コーンスープ、嫌いでしたっけ?」
「いや。別に」
設楽は小さな声で「顔洗ってくる」と言い、そそくさと美奈子の隣を通り越して洗面所へと向かった。
ほくほくと湯気を立てるコーンスープを見つめ、美奈子は少しだけ唇を噛みしめた。
こころ浮き立つような朝ごはんを。そう思っていたのに、何か間違えてしまったんだろうか。
他に用意した料理は、まだキッチンに置いてある。不機嫌の原因がわからないままテーブルに運ぶのは躊躇われ、美奈子は立ちすくんでいた。
ほどなくして戻ってきた設楽は、美奈子には見向きもせず無言でテーブルの椅子をひいた。
「え…っと」
喉に張り付いたような声が出て、美奈子は何度か咳払いをした。怯えた目で設楽を窺う。
「朝ごはん、食べますか?」
視線を合わせず、それでも設楽は微かに頷いたような気がした。
これほどまでに機嫌を損ねてしまった理由はわからないが、とりあえず何か出来ることが見つかったのが嬉しく、美奈子は心中でほっと息をついた。食材を無駄にせずにすんだことも喜ばしかった。
まだ湯気の立つ皿をトレイに載せて運ぶ。自分の分と設楽の分。作っているときは、皿を2枚用意するのが嬉しかった。
「どうぞ」
視線を頑なにテーブルの木目へと逸らせていた設楽が、匂いにつられたのか料理を見た。
ぱつぱつと黄色いオムレツの中身はチーズとプチトマト入りだ。スプーンを入れた瞬間にとろりと中身がはじけるように、具を入れてくるんだあと、卵を焼きつけて皮を作った。焼き目を付けたウィンナーと茹でたブロッコリー、レタスが添えてある。
かろうじで残っていたバケットは薄く切ってリベイクし、オリーブオイルを少し垂らした。小さくカットしたバターと共に小皿に載せる。
酸味の効いたプレーンヨーグルトには、キャラメリゼしたバナナを加えた。
仕上げがコーンスープだった。
冷蔵庫にあったものしか使っていないけれど、腕によりをかけて作った朝ごはん。幸せになるはずの朝ごはん。
自分なりに精いっぱい背伸びをして作った料理だった。
ため息をつくように鼻から大きく息を吐き出した設楽に、美奈子の心がグキリと折れそうになる。
もしかして、せっかく日本に帰ってきたんだから和食が食べたかったとか?
でもそんなことで、こんなに不機嫌になるだろうか。
席に着いて良いのかわからず立ち往生していると、設楽がついに美奈子を見た。ようやく目が合ったのに、逃げ出したい衝動が美奈子の全身を駆け巡った。それでも体は動かなかった。まるで金縛りにあったかのように視線を逸らすことさえ出来なくて。
死刑宣告を受ける囚人のような気持ちで、美奈子は設楽の言葉を待った。
再び料理に視線を戻した設楽は、はっきりと声を発した。
「すごいな」
と。
「これじゃ、怒るに怒れないじゃないか」
呆れたような、怒ったような口調で、しかしまったく悪意のないそれに、美奈子はぽかんと口を開けた。
罵詈雑言が飛んでくると身構えていただけに、緊張のほどけ方もひどかった。反応できずに、口をぱくぱくとさせる。
まるで金魚のような美奈子の仕草に設楽は小首を傾げた。
「俺のために用意してくれたんだろ? それくらいはわかるよ」
「は、いえ、いや、えっと、はい。そうです、けど」
ちょっと整理させてください。口には出さずに、美奈子は頭を抱えた。設楽の言葉を反芻する。
――怒るに怒れないじゃないか。
設楽はそう言っていた。
つまり。
「私は、やっぱり設楽先輩を怒らせるようなことしちゃってたんでしょうか」
「いや、おまえは悪くないよ。俺が勝手に」
そこで設楽は不自然に言葉を切った。言い辛いのか、珍しく歯切れが悪い。低血圧なはずの設楽の頬が微かに染まったのを見て、美奈子は首を捻る。
「勝手に?」
促すと、
「言わせる気か?」
「今後の参考のために、ぜひ」
思わず前で手を合わせて懇願する。あえて軽く言ってみたものの、しかし冗談抜きで美奈子にとって切実な願いだった。
「なんだよ、それ。でもまあ、それなら言ってやらなくなくもない、こともない」
小さく笑った設楽に、日本語ヘンですと思わず言おうとしたが、美奈子は手にぐっと力を籠めて我慢した。
ここで話のコシを折ってしまうと、設楽を怒らせた原因を一生聞き出せなくなってしまう。
「お願いします」
もう一度、今度はぺこんと頭を小さく下げるオプション付きで言い、美奈子は設楽を見つめた。
やはり言い辛いのか、そっと視線を外した設楽の声は微かに掠れていて。
「目が覚めたとき」
断ち切るように、微かに設楽は喉を上下させて続けた。
「目が覚めたとき、おまえを引き寄せようと腕をのばしたら、そこはもう冷たかった。もちろんお前の姿も見当たらなくて。一瞬、俺が日本に戻ってきたことは夢で、おまえを抱いたことも夢で、感じてた幸せも安らぎも全部夢だったのかと思った」
その気持ちを思い出したのか、設楽は小さく息を吐き出して自分の手の平に視線を落とした。開いていたそれをゆっくりと握りしめる。
「夢だからあんなに心地良かったのかってひどく落胆した。でも」
顔をあげて美奈子を見上げる。口元に薄い笑みが広がった。
「よく見ればやっぱりおまえの部屋なんだ。夢じゃないって思ったら心底嬉しかったよ」
美奈子は自然と、設楽の手に自分の手を重ねていた。ひんやりとした温度に触れる。温もりをわけるように包みこむ。
「でも俺は、目が覚めて一番に、美奈子の顔がみたかった。美奈子の笑った顔がみたかったんだ。部屋で、香りで、空気で感じるんじゃない。こんなふうに」
設楽はその手を強く握りしめた。
「生身のお前を感じたかった」
設楽の瞳が微かに揺らぐのを、美奈子は見た。小さな子供のような。捨てられていく子犬のような。
「バカみたいだって思うか? でも俺にとっては焦がれて焦がれてやっと手に入れた朝だったんだ。なのに、おまえはそうじゃないのかって思った。普段通りに起きて、朝食の用意をして。平然と俺を置いて行ったんだ、って」
最後はもう、呟くような声だった。後悔の念が美奈子を襲う。
きゅっと目を瞑った美奈子に、設楽は小首を傾げながら微笑んだ。
「言ったろ。俺が勝手に拗ねただけだ。お前は悪くないよ」
「でも……」
朝ごはんなんていつでも食べれる。目が覚めたときに一緒に居ることが大切だったのに。どうしてそれに気がつかなかったのか。
自分の考えにばかり浮かれて、設楽の気持ちを全く慮らなかったことが恥ずかしかった。
そっと美奈子の手を外し、設楽はテーブルに向き直った。
「いただきます」
両手をきちんと合わせてから、スプーンを手に取る。はじけるオムレツ。中身を割ると蒸気と共にとろりとチーズが溢れだした。
食欲をそそる匂い。誘われるがままに設楽は口に運んだ。
味わうようにゆっくりと咀嚼して飲み込む。
「美味いよ。すごく」
「……あり、合わせ、ですけど。先輩、急にくるから」
泣くのを堪えるのに気を取られて、可愛げのない言葉が転がりだした。狼狽える自分に、もっと優しい言葉が返ってくるとは思わなかった。
「困らせるかもしれないって少しは思ったんだけど、抑えられなかったんだ」
涙を堪えた美奈子の喉がグゥっと鳴った。両手を胸の前で握りしめる。
寂しい思いを、裏切られたような思いを、一番に私に会いに来てくれたあなたにさせてしまうなんて。
本当に、なんて私は。
謝らなくちゃ。
身体を2つに折り、嗚咽が邪魔をして言葉にならない美奈子の声をさえぎるように
「美奈子、ありがとう」
設楽は言った。
「お前の気持ちも汲まないで、勝手に拗ねて悪かった」
いやいやをするように首をふる美奈子の頬をつかまえて、双眸から溢れる涙をひとつひとつ拭っていく。
その優しい手つきは言外に、おまえは悪くないと言っているようで。
どうあっても、設楽は自分に謝らせてはくれないらしい。
しゃくりをあげながら、美奈子は言葉を紡いだ。
「設楽先輩、お願いが、あります」
「ん? なんだ?」
「目が覚めたときからずっとずっとずっと我慢してたんです」
「ああ。言ってみろ。別れ話以外なら聞いてやる」
美奈子は首を大きく左右に振った。こんなに好きで、こんな自分を好いてもらっているのに、そんな話をするわけがない。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を設楽の肩口に押し付ける。両腕を設楽に回すと、温もりがじんわりと伝わってきてひどく安心した。大きく鼻をすすると同時に設楽の匂いがした。
「ぎゅうってしてもいいですか」
呆れたように、もうしてるだろ、と言った設楽に構うことなく、美奈子はさらに力いっぱい抱きしめた。
自分にも回された設楽の腕を感じると、頭のてっぺんから指の先まで幸せが駆け巡る。
大丈夫。冷めてもきっと、朝ごはんは美味しい。
予感ではなく確信だった。美奈子は安心して設楽に体を預けた。
幸せな朝の定義
参考文献:小田真規子著『1日がしあわせになる朝ごはん』(こっそりオススメです) 今年はもう少し短くまとめていきたいです。