加速する微熱
んーっと体をいっぱいに伸ばして、関節を鳴らす。ここ1週間、泥のように眠ったせいで逆に眠れなくなってしまった。睡眠なんてとってもとっても足りないものだと思っていたけれど、そうでもないらしい。
12月の期末テスト前で大事なときなのに、風邪をひいて寝込むなんて馬鹿だよなぁと自分でも思う。
いまさら悪あがきしたって仕方ないのはわかってるけど、ちょっとは勉強しなくちゃなぁ、と机の上の本棚に手を伸ばすと写真立てが目に入った。手の進行方向が、教科書から写真立てに変わる。
「………くくっ」
それを手に取って、私は再びベッドに寝転んだ。
入っている写真は、ナンバーワン刺繍の入ったスーツを着た設楽先輩だ。
写真部が売っている文化祭のときのものを、思わず買ってしまったのだ。この写真も人気があったみたいだけど、負けず劣らず『困ってる人プラカード』を掲げた琉夏くんの写真も売れたらしい。
どうやら隠し撮りみたいで、視線がこっちを向いていないのが残念だけど、しかも不機嫌そうに眉をひそめているけれど、直接その姿を見れなかった私にとって、これは十分ありがたかった。このむすっとした表情も、なんだかんだ言って設楽先輩らしくて良かった。
……そういえば、設楽先輩にも1週間会ってない。
なんだか急に会いたくなって、写真立てを胸に抱いたそのときだった。
コンコン、と控えめなノックが部屋に響いた。
お母さんかな、と慌てて写真立てをひっくり返して枕元に置いた。机の上に飾っている時点で、お母さんには写真を見られているから隠す必要なんてないんだけど、さすがにこれを眺めている姿は見られたくない。
「きれいな顔した子がいるのねー」なんて言いながら、クスリと笑ったお母さんに、
「そんなんじゃないよ!」
と慌てて否定したことが嘘になってしまう。
そうだよ、嘘じゃないんだから。ほんとに、そんなんじゃないんだから。
頬が赤くなっていないことを祈りながら、
「はーい、なぁに?起きてるよー」
と努めて冷静な声を出した。
「……なんだ、起きてるのか」
キィ、と開かれたドアのさきには、いまさっきまで胸に抱いていた顔があった。
一瞬、固まって、反応が遅れた。
「…………わっ!? 設楽先輩!?」
どうして先輩がここに!? っていうか私、パジャマ!
それどころか、顔も昨日の夜洗ったきりだし、部屋だって片付けてないし、髪も、って、ええぇ!?
動揺して口をパクパクさせる私にお構いなく、設楽先輩はするりと部屋に入ってきた。
「見舞いだ。果物、家の人に渡しといたから」
「えっ、あの、あ、ありがとうございます」
かろうじで出たかすれ声で、もごもごと答えれば、設楽先輩がため息をついた。
「声でないなら、無理してしゃべるな。すぐ帰るから」
「で、でも、っていうか、声が掠れたのは、その、びっくりしたから」
慌てて手を振った私を一瞥して、設楽先輩は、こんなはずじゃなかったとゴチた。
「なんだよもう……。寝てるって言ってたから、顔だけ見て帰るつもりだったのに……」
起きていたことがなんだか申し訳なくなって、私はしゅんとうなだれた。
「すみません、わざわざ……」
「なんでおまえが謝るんだ。おまえは別に悪くないよ」
あれ、なんかいつもと違って優しいな、なんて一瞬考えた私が間違いだった。
設楽先輩は目を瞑ってなにか逡巡したあと、急に私をにらみつけた。
「……いや、やっぱり悪い。体調管理くらいちゃんとしとけよ。心配するだろ」
「す、すみません」
さっきの優しい声との違いに戸惑いながらついまた謝る。
どうして急にイライラしちゃったんだろう。私、何か言っちゃったのかな……?
身体を縮こまらせた私に、設楽先輩は再び目をつむって息を深く吐いた。ベッドの傍らにひざまずいて、私の髪をゆっくりなでる。口調とは裏腹に優しい手つきだった。
「……心配したんだよ、本当に」
「設楽先輩……」
頭を往復する手は優しいのに、設楽先輩は唇をかみしめていた。
「おまえが無理してるとか、気付いてやれたらいいけどできないんだ、俺は」
「え……?」
「そういうの、うまくないんだ」
悔しいけど、と言われてるような気がした。
設楽先輩がそんなふうに思う必要なんてこれっぽっちもないのに。
「だから無理なときは無理って言ってくれ、倒れてからじゃ困る」
「あの、設楽先輩のせいじゃないですよ? 私が……」
「……わかってるよそんなこと。だからさっきそう言っただろ。悪いのはおまえだ、おまえ」
急に怒り出して、こんなこと言うつもりじゃなかったとばかりに私の髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。昨日は洗ってないから、絶対ベタついてるのに! 止める間もなく思いっきり乱れさせたあと、
「ああもう、なんで起きてるんだ」
ち、と設楽先輩が小さく舌打ちをした。
ほんと、どうして起きちゃってたんだろう。自分でも何だか失敗したような気持ちになって俯いた。
……でも、悪いことをしたわけじゃないのに、どうして怒られなきゃいけないんだろう。
そう思った途端、なんだか理不尽な気持ちになってきて、ほっぺたをふくらませて先輩を見上げた。
「な、なんだよ」
「………べつに」
「……フンッ」
文句でもあるのかとばかりに人差し指で私の鼻を押した。
「っ!?」
「とにかく、早く治せよ、いいな!」
帰る! と立ち上がりかけた設楽先輩が、枕元に視線を落とした。
「おい、美奈子。写真立て、落ちてるぞ」
「え?」
「これくらいは戻しておいてやるよ。ここで………」
「ちょ、」
「…………………」
設楽先輩の動きが止まった。
同時に私の動きも止まった。
ただ、ようやく下がった体温が、急激に上昇していくのだけは感じた。
「…………………」
「…………………」
「な、何か言ってください」
「な、何を言えっていうんだ。何を」
「そ、それはその、」
再び言葉に詰まって、俯いた。設楽先輩が小さく息を吐き出した。胸から絞り出すような音だった。
「………わかった、じゃあ言ってやる。こんなものを写真立ての中に入れるな飾るな枕元におくな!」
「……も、申し訳ございません」
「謝るなよ!」
「……って、どっちなんですか!?」
「い、いや、わかって、わかってる。ちょっと動揺してるんだ、俺は」
微かに震えている声に、思わず顔を上げる。
私に負けず劣らず、設楽先輩は頬を赤く染めあげていた。
「し、たら、」
「ちょ、ちょっと待て! 俺を見るな」
「ほっぺた、赤いですよ?」
「そりゃ自分の写真が好きなおん、なっ、じゃっなくて! おまえの部屋にあったら動揺もするだろ!」
「え、ええと?」
「自分の写真が他人の部屋にあったら、普通驚くだろって言ってるんだ! だから、今の俺は普通だ!」
「た、確かに………」
はぁーーーー、とおもっきり息を吐き出したあと、設楽先輩はその場にへたり込んでしまった。
こんなふうに脱力されるとは思わなかった。……怒られるとは、思ってたけど。
「あの、設楽先輩? 大丈夫ですか?」
「大丈夫に見えるか?」
「見えないから聞いてるんですって、もう」
「おまえは………、ほんとに……」
見上げられた瞳に、胸がドキリと鳴った。なんだろう、この感覚。ちょっと可愛い、とか思ってしまったような気がする。
妙に鼓動が早くなって、慌てて視線を逸らせた。
「先輩は、その、怒らないんですか?」
布団カバーの模様を見つめながら呟いた。
「怒る? 俺が? どうして」
「だって、設楽先輩の写真、勝手に持ってたから」
「それは……べつに、お前の自由…っていうか、そういえばこの写真、どうしたんだ?」
と設楽先輩が写真立てを持ち上げた。
「あれ?写真部の販売展覧会行かなかったんですか? すごい人気だったんですよ」
「ハァ!? これが?」
「そう、そうです。ナンバーワン刺繍入りスーツ着た設楽先輩」
「………知らなかった」
心底驚いた顔をしている設楽先輩がおかしくて、小さく吹き出した。興味のないことについては、徹底的に興味がないんだろう。設楽先輩らしいといえば設楽先輩らしいかもしれない。
「設楽先輩なら、写真部が文化祭の写真売ってること知らなくてもおかしくないですもんね」
「どういう意味だよ、それ。だいたい、俺は知ってたぞ」
「え!? ほんとですか? じゃあ絶対気づきますよ。この写真、大きく貼り出されてましたから」
「お、俺は、それどころじゃなかったんだよ!」
首をかしげると、慌てた設楽先輩は写真立てを私の目の前につきつけた。
「そんなことより、どうしておまえがこの写真を買ってるんだよ?」
「え? だって文化祭の日会えなかったからです。先輩がスーツ着てるのなんて貴重だし。しかもナンバーワン刺繍入り」
くすっと笑みを付け足しながらいうと、先輩は心なしか肩を落として言った。
「……なんだよ、そういうことか」
「え…と、設楽先輩?」
一瞬唇を尖らせるようにした先輩は、はっと大きく瞳を開いた。
「……待てよ?じゃあどうしてこの写真を枕元に置いていたんだ」
「えっ」
やばい、せっかく世間話を装って平静を保っていたのに。また一気に、頬が熱くなるのを感じた。
慌てて視線を逸らせる。設楽先輩が意地悪そうに笑うのが、一瞬目の端に映った。
「どうした。何かやましいことでもあるのか」
「や、やましいことなんて、べつに」
「だったらほら、言えよ。どうして俺の写真をわざわざ枕元に置いてたんだよ」
「理、理由なんか」
「ないわけないだろ。それともなにか? 俺を焦らしてるのか?」
「じっ、じらしてなんて」
「言え」
徐々に設楽先輩が顔を近づけてくるから、身体を後ろに後退させていくと、カタ、と背中が壁にぶつかった。ついに逃げ場はなくなった。こうなったら最後の手段だ。
「〜〜〜〜〜っ!」
「あっ! ずるいぞおまえ! 逃げるな!」
ガっと布団の中にもぐりこむ。そのうえから設楽先輩が覆いかかったのか、妙に重さを感じた。けれどこれで設楽先輩の顔は見えない。
重みが苦しくて、小さく息を吐きだした。
ぽろりと本音も、一緒に零れた。
「……会いたかった、から」
「え……?」
「設楽先輩に、会いたかったから、写真を見てたんです!」
「な…っ」
一瞬の沈黙のあと、ふわりと身体が軽くなった。設楽先輩が、布団から退いてくれたらしい。
ふぅ、と設楽先輩が息を吐いたのが、布団越しに聞こえてくる。
けれど私は、恥ずかしくて丸まったままだった。きっと、今日一番熱が高い。
「美奈子」
「は、はひっ」
「……体調、崩してるのに悪かったな。今日はこのくらいで許してやる」
聞こえてきた声がなんだか固くて、ほんの少しだけ布団をあげる。
「せんぱ、」
「帰る。邪魔したな」
どうしよう、もしかして、怒ったのかな。
思いっ切って布団からそっと顔を出すと、設楽先輩の指が待っていた。
「……ひっかかったな」
また鼻をきゅっと押された。うう、ボタンじゃないのに。
「早く治せ、いいな?」
「………ハイ」
「じゃあな」
ふわりと笑って、設楽先輩が背中を向けた。ホッと息をついたくせに、なんだか妙にさみしい思いも込み上げてきた。こっそりとその背中を見送っていると、ドアに手をかけた設楽先輩が振り向いた。
「そうだ、おまえにひとついいことを教えてやる」
「い、いいこと?」
「俺も、写真部から一枚、というか焼き増しできないようネガごと買い取った写真がある」
「………はぁ……?」
「メイド服を着た、おまえだ」
「…………ええぇっ!!??」
「なんだ、自分の写真がおいてないのにも気づかなかったのか?」
「え、な、だっ、ええ!?」
「お前も俺と同じだな。じゃあ、ゆっくり休めよ」
「ちょ、した」
らせんぱい。呟いた言葉は、ひとりになった部屋に木霊した。
ネガごと買い取った、って。
それが私の写真だって。
それって。それってどういう、こと?
疑問符ばかりが頭の中に飛び交って、答えを持つ人はきっともう玄関を出てしまっているだろう。
床に落ちていた写真立てを拾い上げる。相変わらず、不機嫌そうな横顔だ。
ねぇ、先輩。次に会ったとき、私はいったいどんな顔をすればいいの?
これでは、期末テストの勉強なんて手がつくわけがない。
なんだかもう一週間、寝込んでしまいたい気分だ。写真立てを胸に抱き、私は再び布団の中にもぐりこんだ。心なしか、微熱が加速していくように感じた。