紺野 
 蚊か蛾か、何か虫でも部屋に紛れ込んだんだろうか。
 そう思って思わず部屋を見回してしまった原因の唸り声は、どうやら目の前に座る可愛らしい女性から発せられていたものだったらしい。
「……そんなに難しい?」
 つい声に出してしまった。
 言ってから、しまった、と思っても遅い。美奈子さんは肩をビクリと震わせて、みるみるうちに恨めしそうに目じりを吊り上げていった。ああ、やっぱりやぶへびだったか。
「難しいですよ! 紺野先輩が手伝ってくれたら別でしょうけど!」
「ああ……ごめん。でもそれは君がやらなくちゃ、本番で解けないよ? 成績評価しかしない授業なんだろう?」
「それはそうですけど……」
 ぷ〜っと膨れていたほっぺたが、まるで風船の空気が抜けていくように音を立てて萎んでいった。大学に入学してから初めての期末テストだから、余計に神経過敏になってしまっているのかもしれない。
 無理だと言われた一流大学に入学した彼女は、人一倍どころか、十倍は努力してきていた。そのせいか、彼女にはなんでも自分ひとりで解決したがるところがある。だから、こんなふうに弱音を吐くのはとても珍しいことだった。
 よほど強敵なんだろうか。覗いてみると、確かに少しいやらしいタイプの問題がずらりと並んでいて、一筋縄ではいかなさそうだ。
「うーん。これは難しいな。よし、少しだけ手伝わせてもらおうか。今やってる問題はどれだい?」
「……これです」
 しょぼんと肩を落としたまま、美奈子さんがプリントの問題番号を指でさした。彼女のすらりと細い指先には、なんの飾りもつけられていない。清潔な爪は、ピカピカに磨き上げられていて、つるりと輝いている。触れると、僕より温度が少しだけ低いのがわかる。指を絡ませれば、僕のとの違いはもっと鮮明にわかった。
「……あのー、紺野先輩? わかります?」
「…えっ!? あ、あ〜っ! ご、ごめん。別のこと考えてた。ちょっと待って」
「? はい」
 つい指に見入ってしまって、問題のことを考えていなかった。慌てて居住まいを正す。
「え…、と。コホン。この問題は……」
 少し上ずった声に疑問を抱かなかったのか、美奈子さんは真剣にコクコクと頷いて説明を聞いてくれた。解説していくうちに脈を打っていた鼓動が徐々に落ち着いてくる。もう少しで解にたどり着くまでの道筋を示したところで、すっかり平常心に戻れていた。
「……となるわけだ。わかった?」
「ありがとうございます!」 
「じゃあ、はい。続きをどうぞ」
「ええっ!?」
 素っ頓狂な声が上がって目を丸くすると、美奈子さんも僕と同じくらい目をまるくしていた。
「どうしたの?」
 首を傾げれば、美奈子さんが僕の顔を覗きこむようにして、甘えた口調で言った。 
「ねえ先輩? ここまで解いてくれたんだから、最後までやってくれませんか?」
「……ダメ。それじゃ力がつかないだろ?」
 にっこりと笑顔で返す。美奈子さんはむうっと唇を尖らせた。無言の攻撃だ。でも、これは美奈子さんのために言っていることなんだから、僕だって負けてられない。
「ダメだって。自分でやりなさい」
 視線を外して、パラリとさっきまで自分が解いていた教科書をめくる。本当はそのページすら見えていないんだけど。くいっと服の袖を引っ張られて、視線を戻せば、さっきと同じ表情のまま、美奈子さんが言った。
「じゃあ、自分で解いたら、ご褒美くれますか?」
 くいくいと服が引っ張られる。小さくため息が出た。まったく、この人はどうしてこんなに無防備なんだろうか。それとも、僕がこういう仕草に弱いということを計算してやってるのかな。
 だとしたら、これからが怖いぞ。彼女が言うこと全部、叶えてしまいたくなる。
 それが癖になることをわかっていて、それでも結局、僕は頷いてしまうのだった。
「それは、僕にあげられるものかい?」
「はい」
「……わかった。そのかわり、この問題だけじゃなくて……。そうだな。これとこれも解いたらあげるよ」
「やった! 頑張ります!」
 そっと付け加えた条件を、美奈子さんはいちもにもなく飲み込んだ。ちょっと難しいはずの問題なんだけど、良かったのかな。美奈子さんが言う”ご褒美”をあげたい僕としては少々複雑な気持ちで、シャーペンを走らせ始めた彼女の横顔をそっと眺めた。
 歓喜の声は、突然上がった。
「先輩、出来ました!」
 ドーンとでもばかりに、僕に堂々とノートを広げる美奈子さんには、喜色満面の笑みが広がっている。
 思わずそれにつられて、ぷっと笑いを零してから、ノートに手を伸ばした。
「よし。じゃあ見せてもらおうかな」
「ええどうぞ!」
 仁王立ちでもせんばかりの口調なだけあって、答え合わせはすいすいと進んだ。
「……すごいじゃないか。全部あってる。これなんて難しかったろうに。よくできたね」
「へへ。頑張っちゃいました」
 キラキラ輝く瞳に思わず手が伸びた。小さな子供を褒めるように頭を撫でると、美奈子さんは嬉しそうに目を細めた。
「わかった。それで、君は何が欲しいんだい?」
「キスしてください!」
「……え?」
 予想外の言葉に、動かしていた手がピタリと止まる。不満そうに頬を膨らませて、美奈子さんが僕を見上げた。
「だって今日はせっかく二人っきりで先輩の部屋に居るのに全然してくれてないです」
「え!? いやだってそれは」
 二人きりなのにというか、二人きりだからというか。
「それはちょっとまずい……んじゃないかな…? 一応、密室だし」
「密室だからです!」
 難しい問題は解けても、繊細な男の心情はサッパリ理解していないらしい彼女は、折れてくれそうになかった。
「それに、さっき先輩約束してくれたじゃないですか! ご褒美くれるって!」
 いままさに、安請負いはするものではないと猛烈に後悔してるところだった。それを言われてしまうと、ぐうの根も出ない。美奈子さんは、形の良い唇を誘うように寄せてきた。
「はぁ……。わかったよ。君が望むなら。でも、どうなっても知らないよ」
「どうなるんですか?」
「……それはお楽しみだ」 
 くすっと笑ってから、美奈子さんは瞳を閉じた。彼女の顎を掴んで固定させてから、眼鏡を外して机に置く。
 かちゃりという音に、美奈子さんの身体が静かに跳ねた。これから起こることを、きっと考えたんだろう。徐々にその頬が赤くなっていく。なんて愛おしいんだろうな、僕の恋人は。
 呼吸を止めて、彼女に近づいた。
 ちゅ、と軽く触れたそれは、予想以上になんだか固かった。 
「………なんてことだ」
「ふふっ、鼻にあたっちゃいましたね」
「わ、 笑わなくてもいいだろ。ちょっと待って。今眼鏡を」
「先輩、もう黙って下さいね」
「え?」
 彼女に呑みこまれた言葉は、別の音にかき消されていった。