ストップウォッチを止めながら、「そこまで!」と声を上げた美奈子ちゃんが、まるで天使のように見えた。俺の道着を掴む嵐さんの指から力が抜けるのを感じて、俺の腰からも力が抜けそうになった。
その場で崩れ落ちるのをなんとか堪えて、元の立ち位置に戻る。嵐さんはしっかりとした足取りで、すでに俺の向かい側に立っていた。
「ありがとうございました!」
声もデケェ。俺のは虫の息みてぇなのに。
あんだけキツい普段のメニュー、しかも嵐さん用の超ハードなやつをこなしたあとに、俺の居残り練習に付き合ってもなお涼しい顔をしている嵐さんはマジで人間かよって思う。そして、心底尊敬する。ヒョイと屈んで取ったタオルで乱暴に顔を拭きながら、嵐さんは微動だにしない俺に一瞥をくれた。
「新名。腰に余計な力入れすぎ。そんじゃもたねーぞ」
「……押忍」
「俺シャワー行くけど。お前は?」
「行く。……けど、ちょっと今は動けねーんで、嵐さん、お先どうぞ」
「だらしねーな。あれくらいで」
どこが『あれくらい』なんだ、と言い返す気力もなく、俺はシャワー室に向かった嵐さんの背中を見送った。
ダメだ、超しんどい。今倒れたら、絶対明日の昼まで起きらんねー自信ある。
立っているだけでも辛ぇのに、足を一歩前へ動かすなんて、自殺行為としか思えない。ああ今すぐ寝たい。足元に広がる緑の畳の上に、何もかも忘れてタイブしちゃいてぇ。
「新名くん? どうしたの?」
ストップウォッチをクリップボードに括りつけようとしていた美奈子ちゃんが、動かない俺に気付いて近づいてきた。差し出されたドリンクを受け取るために腕をあげる。それすらだるい。
「ご心配なく…って言いてぇとこだけど、ちょっーと……キツい……かも」
素直に申告すれば、メニューを組んだ本人である美奈子ちゃんは困ったように眉毛を寄せた。ああ、困らせたいわけじゃなかったのに。
「うん……そうだよね。ほんとにこのメニュー、キツいと思う。もっとちゃんと配慮すれば良かった」
「いやいや、こんくらいやんねーと、今の俺じゃ嵐さんから1本も取れねーんだから仕方ねぇって。アンタは何も悪くねぇよ?」
「ん……」
美奈子ちゃんは首を捻って、クリップボードに挟んである俺の練習メニューを見た。
「新名くんの弱点は体力不足だから、そこに重点を置いて、次のメニュー考えてみるね」
「……押忍」
体力不足という痛いところを突かれて、腐りそうになる自分はもう卒業していた。事実は事実として受け止めて、そのうえで努力することが大切さを、嵐さんと美奈子ちゃんに教えてもらった。実際、前よりちゃんと力がついているのはわかる。まだまだ、嵐さんには適わねーけど。
「ちゃんと言ってくれて、あんがと」
言いづらいことなのに、そうやって指摘してくれるのは美奈子ちゃんの優しさだ。礼を言えば、なんでもないことのように笑った。
「私も新名くんが勝つとこみたいもん。一緒に頑張ろうね」
彼女の笑顔の後ろにヒマワリが咲き乱れた。清涼な風が流れ込んできたような気がする。
美奈子ちゃんの笑顔は一点の曇りもなくて、きらきら輝いてて、疲れなんか一気に吹っ飛ぶくらいのパワーをもらえる。なんだかなんでもできそうな気分になるのだ。
気合を込めて、俺はドリンクを持ち上げた。
「っしゃ! いっちょやりますか!」
「うん! 応援してる!」
輝く彼女の笑顔を受けて、ぐいっと一気にドリンクを煽った。
「っし! んじゃもういっちょー……っ!?」
「ッ新名く…っ!」
いきなりひざが笑って、グラリと体が傾いだ。思っていた以上に疲労はたまっていたらしい。バランスを崩した上半身が、重力にあらがわず前のめりになった。畳に身体を投げ出される前に、ドン、と何かに支えられ、すぐにその温もりを感じた。が、美奈子ちゃんの腕が俺の重みに耐えられるはずもなく、そのまま彼女を押し倒した。
「―――っ!?」
なんとか肘をついて、美奈子ちゃんに俺の全体重がかかることだけは避けられた。
けれど。
今の、感触………。
全身がカッと熱くなった。
「……ごめん、俺、い、いま」
確かに、彼女の鼻先に、俺の唇が掠ったような気がする。
美奈子ちゃんは真っ赤になって、俺を見上げた。俺の真下で、美奈子ちゃんは肩をきゅっと寄せて小さくなっていた。
膝から少しでも力を抜けば、体が重なる。立ち上がらなければと思う一方で、そのまま体を重ねてしまいたいような衝動にかられた。少なくとも、微かに涙目で俺を見上げる美奈子ちゃんに、嫌悪の色は浮かんでいない。
「美奈子ちゃん……」
身体の疲労はどこへやら、肘で体重を全力で支え、首の角度を変えて顔を近づけた。今度こそ、ちゃんとしたキスを。潤んだ瞳には、俺が映っていた。濃く香る、甘い甘い彼女の匂い。
ガラリと道場のドアが開いて、俺は反射で体の重心を横へ倒した。あっけなく俺の身体は畳の上に転がった。血の気の引く音を聞いた気がした。一方で、美奈子ちゃんは体を俊敏に起こしていた。
「………何してんだ、お前ら」
ドアを開けた嵐さんが、わしわしと髪を拭きながら眉を顰めた。
「な、何も! ちょっと新名くんがよろけちゃって! ね!?」
「っそ、そうそう! 別にこれっぽっちもやましいことなんてしてねーから!」
「………言えば言うほど嘘くせぇ」
「!!」
絶句した俺と美奈子ちゃんに、嵐さんはため息をついて部室の鍵をポケットから出した。
「まあいいや。閉めるからとっとと帰る準備しろよ。それから新名、お前もう家帰ってシャワー浴びろ。下校時間、とっくに過ぎてっから」
「お、押忍」
力を入れて立ち上がると、案外歩けそうだった。顔を赤くしたままの美奈子ちゃんはまだそこに正座している。声をかけるかかけまいか迷って、結局何も言わずに部室を出た。何も言えなかった、が正しいかもしれない。俺の頬も、彼女の頬と同じくらいに赤くなっていた。
唇が触れた肌の残像に、甘い香りが僅かに蘇る。ああもう、どうすりゃいいんだよ、この熱。
「新名」
「っはい!?」
「明日っから朝練追加な。その浮っついた根性叩き直してやる」
「………」
「返事は」
「押忍………」
夏が始まろうとしていた。