中身がぎっしりと詰まったスーツケースは、予想以上に重かった。
ドアを閉めるときに振り返った、ワンルームマンションの私の部屋は、設楽先輩の荷物がすっかり片付けられていて、彼が来た1週間前と何ひとつ変わっていない。それなのに、なぜか別の誰かの部屋のようによそよそしく感じられた。
マンションのすぐ前にまで寄せられた車にスーツケースを運ぼうとしたら、大きな手がそれを遮った。
「ああ、荷物はここまででいい。ありがとう」
「え? でも……」
「お前が俺の手を気遣ってくれるのは嬉しいよ。でもだからって、重いものをお前に運ばせるわけにはいかないだろ」
マンションのロータリーの前には小さな段差がいくつかあって、先輩はそのことを言ったんだろう。運転手さんが音もなく現れて、そのスーツケースをさらっていった。
少しでも長く先輩の傍にいるための口実も一緒に消えてしまった。
「美奈子。なんて顔してるんだ」
「だって」
「また来る。すぐにでもな」
俯いた私の頬を、設楽先輩の指がゆっくりと撫でた。その細い指に噛みつきたくなる。ピアノなんてなければ、この別れもないのに。
普段は思ってもいないことが、どうしても脳裏を掠めた。
「……先輩と久しぶりに過ごした1週間が、楽しすぎたからかな」
「ん?」
少し温度の低い手のひらを捕まえて、自分の頬に押し当てた。流れた涙が、先輩の指先を濡らす。
「今度はいつ会えるの?」
「そうだな……。お前がパリに来れば、いつでも会えるようになるぞ」
苦笑するしか、出来なかった。
ぽろぽろと落ちる涙も、私の我が儘な言葉も、先輩を困らせるだけでどうしようもないことなんだって、わかってるのに。
無言で回された腕にしがみつく。
「………ごめんなさい」
「謝るな。自分が情けなくなる」
「大好きだから。ピアノ頑張ってる先輩が、大好きだから」
ほんとに、応援してるから。喉がひくついて、言葉にはならなかった。
身体に回された腕の力が、ぎゅっと強くなった。同じように、私も強く先輩を抱きしめた。
私と同じボディソープの匂いがする。一緒に暮らしたのはたった1週間だったけど、彼にも染みついたんだ。
それが嬉しく感じられたのはたった一瞬だけで、ひどく切ない気持ちに襲われる。
1週間でついた匂いは、1週間を待たずに消えてしまうんだろう。パリの生活の匂いに。彼のせかいの、匂いに。
どうしようもないことだって、わかってるのに。わかってるのに、バカだなぁ。こんなにも悲しい。
我慢できなくて、嗚咽がもれた。
はぁ、と上からため息が降ってきた。体がびくりと震える。恐る恐る視線を上へと巡らせると、困ったように眉を寄せた先輩がいた。
「せんぱ………」
「恋人が起きてるうちに、別れるもんじゃないな」
意味が飲み込めなくて、ひたすら先輩の瞳を覗き込む。微かに揺れていた。
「夜中、お前に気付かれないうちに出て行けばよかったんだ」
「……っそんなの絶対イヤです!」
目が覚めて、隣に先輩がいないなんて。荷物がすっかり片付けられているなんて。
「絶対イヤ!」
再び降ってきたため息。
「美奈子」
睨みあげる。
膨れた頬を、指が刺した。ぷすっという間抜けな音とともに空気が抜けていく。
切ない瞳が、私を映していた。
「別れ際にそんな可愛いこと言われても、抱けないんだぞ」
「え…………?」
「……辛いだけじゃないか」
微かに染まった先輩の頬。逸らされた視線は彼の羞恥心からだった。
「………許さないからな」
不意に鋭くなった先輩の目が、私を責めるように射抜いた。
「俺をこんな気持ちにさせといて、おまえだけ平気そうな顔してるなんて不公平だろ」
「そ、そんなこと言われても…っ」
「キス。お前からしたら許してやる」
潤んだ瞳が、熱を帯びていた。
ばかだなぁ、と思う。ばかだなぁ、私。
離れて寂しいのが、私だけであるはずがないのに。先輩だって、きっと寂しいのに。
ううん。もしかしたら、私以上に。
自分の中から、気配が、匂いが、確実に消えていく。
寂しくないわけ、ないのに。
「美奈子」
促すように言われて、私はそっと小さく頷いた。
「……はい」
口実なんて、なんだって良かったんだ。さよならのキスでさえなければ。
「先輩」
「なんだ」
「さっきは、ごめんなさいって言ってごめんなさい」
「何のことだよ。ほら、早く」
「もう。体にだけは、気を付けてくださいね」
「お前もな」
瞼が臥せられた、端正な顔に自分の唇を寄せる。
「まだか?」
「はいはい。いましますって」
踵をあげて重ねようと首を傾けた。
「っ!?」
「んっ」
同時に先輩の頭も、前へと傾けられた。思った場所に唇は行かず、別の場所にぶつかってしまった。
「………おまえな、どこにしてんだよ」
「え…っと、鼻に、あたっちゃいました、ね」
「………」
「そ、そんな顔しなくても。もう一回、目を閉じてもらえます?」
「もういい。俺からする。焦らされるのはごめんだ」
「じ、じらしてなん……んんっ!」
それから少ししてからのこと。部屋を引き払って、今度は私が、スーツケースに荷物を全て詰め込んだ。
ずっと一緒の香りに包まれるために。