琉夏
 甘い匂いが鼻をくすぐった、気がした。
「っわぁ!」
「おっと」
 目を開くと同時に、身体を後ろへのけ反らせる。
 思わず出た叫び声は割と小声で、それでも閑散とした放課後の図書室にはよく響いた。数少ない生徒たちから、当然ながらも好意的とは言えない視線が寄せられる。なのに、琉夏くんは気にもとめたふうもなく、ごく普通の声色で私の名前を呼んだ。
「美奈子」
「な、なに?」
 もじもじと小声で応答すれば、琉夏くんはにっこりと笑った。
「デコとほっぺに、制服の跡ついてる」
「えっ!」
 パシッとおでこに手を当てた音もかなり目立ったようで、さっき私達を睨んでいた男の子と目があった。おでこに当てた手の隙間から曖昧な笑みを返すと、勢いよく顔を逸らされてしまった。彼が不快に感じたことは、火を見るより明らかだ。落ち込んで肩をしょぼんと落とした私を、琉夏くんは依然として何やら嬉しそうに眺めている。まったく、誰のせいで怒られたと思ってるんだか。もう。
 軽く目を吊り上げて、つい琉夏くんに八つ当たりをしてしまった。
「もう。来てたなら起こしてくれたら良かったのに。だいたい琉夏くん、いつから居たの?」
「俺? 結構前から居たよ?」
 小声で返ってきた答えに、私はさらに頬を膨らませた。
「じゃあ声かけてくれれば良かったのに」
「俺も起こしてあげようと思ったんだけどさ、美奈子があんまり綺麗な顔して寝てたから、つい見入っちった」
「な……っ」
 琉夏くんの突然の出現に驚いてすっかり忘れていたけれど、私はついさっきまで寝てしまっていたのだった。慌てて広げていたノートに視線を落とす。よかった。涎は垂らしてなかったらしい。これってセーフなんだろうか。
「いやいや、アウトでしょ」
「ん? なんか言った?」
 私のひとり突っ込みに、琉夏くんが小首を傾げる。隣のパイプ椅子に腰かけている琉夏くんに手荷物は見つからない。どうやら、私のように明日の小テストの勉強をしに来たわけではなさそうだ。
「琉夏くんは図書室に何の用事?」
「美奈子と帰ろうと思ってさ。一緒に帰ろ? 送ってく」
「帰るって、鞄は?」
「カゴの中に置いてきちった」
「カゴ……?」
 琉夏くんがよく乗ってくるバイクには、たぶんカゴはついていない。学校から、自転車でも借りたんだろうか。首を傾げた私に、琉夏くんはきらきらした笑顔で言った。
「昨日、ローマの休日観たんだ」
「ああ、なるほど……」
 つまりは二人乗りがしたいということなんだろう。期待に目を輝かせた琉夏くんに、私は罪悪感を覚えつつもペコンと頭を下げた。
「でも、ごめん。私まだ勉強しなきゃ……」
 涎こそついてないものの、寝てしまったせいでノートはほとんど真っ白だ。
 琉夏くんは小さく頷いた。
「うん。俺もそう言うだろうなって思った。だからキスで起こしてあげようと思ってさ」
「……えっ?」
 予想外の言葉に、思わず目が点になった。
「……嘘、」
 ようやく反応が追いついて、口元を手で覆う。まさか。さすがに嘘だよね?
 ……でも、目が覚める直前に香った甘い匂いの正体は、紛れもなく琉夏くんの香水だ。
 体を強張らせた私を見て、琉夏くんは残念そうに首を振った。
「する前にお前、起きちゃったけど」
「…………なんだ、もう。びっくりさせないでよ」
「あれ? してほしかった?」
「そ、そうじゃなくて!」
 小首を傾げた琉夏くんに、慌てて両手を振る。琉夏くんは目元を緩めて、
「真っ赤だ。お前」
 ふわりと笑った。
「すげー可愛い」
「!」
 琉夏くんの腰がパイプ椅子から浮いた。ぐいっと一瞬で、距離がなくなる。
 さっきと同じ、甘い匂いがした。
「……っ」
 目を強く瞑って体を固くした私の鼻に、柔らかいものが押し当てられていた。
「……ん。おはようのチューだ」
 目を開いたときに見えたのは、琉夏くんの悪戯っぽい瞳だけ。
 体を後退させながら、私は口を開き、声が後から追いついてきた。
「な、な、な、なーーーーっ!!!」
 今度こそ図書室中の視線を集めてしまったに違いない。
 パイプ椅子から崩れ落ちてしまった私に、司書の先生がついに退室命令を出した。
 琉夏くんはなんとも嬉しそうに顔をほころばせながら、私の勉強道具を片付けるのを手伝うと言った。
 まさか琉夏くん、確信犯……? ノートや教科書を無邪気に笑いながら重ねていく彼の横顔を盗み見る。視線に気づいたのか、私を見た琉夏くんは、やっぱり嬉しそうに笑った。唇が弧を描いている。さっき鼻先に押し当てられた、唇、だ。
 どきまぎと大きな音を立てだした心臓に気付かないふりをしながら、筆箱のファスナーをざりざりとわざと大きく鳴らして閉めた。今日はもう、とても勉強できそうにない。
 明日のテストを思うと、一緒に冷ややかな目をした氷室先生が出てきた。怖すぎるって。
 それなのに、自転車で切る潮風はいつもより心地よく感じられた。ぎゅっと彼の背中にしがみつくと、あったかくて、気持ち良くて、なんだか胸まで琉夏くんの甘い匂いで幸せいっぱいに満たされていった。