車を降りて、すぐにあたりを見回す。いつもなら出迎えてくれるはずのはるの姿が、今日はなかった。彼女がここで使用人として働いているのもあと少し。彼女がおれの傍にいてくれるのも、あと少しなんだ。そう思うと居てもたってもいられなくなって、いつもより早く学校を後にしたのが裏目に出たらしい。予定よりだいぶ早く家に着いたみたいだ。
居ないなら、おれが探せばいいだけだし。
制服も学生帽もそのままに、おれは鞄を大きく振って屋敷のなかを駆けまわった。千富にすれ違いざま、
「まあ、なにごとですか」
と言われたけど、もうとっくに彼女の姿ははるか後方にあったから、心の中で舌を出して謝っておく。
壱分壱秒が惜しいんだ。はやく、はやくはるに会いたい。そして、すこしでも長く隣に居たい。
探し回ってようやく見つけた後ろ姿に、声をかけようとして、息を止めた。
縁側に腰掛けて洗濯物を畳んでいた彼女は、小さく鼻歌を口遊んでいた。
息をひそめて、とぎれとぎれに聞こえてくる旋律に耳を傾ける。
おれは無意識に目を閉じていた。全身全霊をかけて、その歌に集中する。聞いたことのない曲。でも、なんだか懐かしいような感じがした。はるの声が、そういう気持ちにさせるのかもしれない。
優しい声。ふわりと包みこんでくれるような、穏やかな空気。
すべてを、このてのひらのなかに閉じ込めることができたなら。
広げた自分の両手は、あまりにちっぽけで、なにもなかった。そっと指を折り曲げる。ただ、空を掴むばかりだった。
頭を振って、鼻から息を吸い込んだ。肺いっぱいに溜めた空気を、口からそぉっと押し出してみる。
うん。大丈夫だ。少しだけ泣きそうになったけど、涙は出ていない。もう一度、息を大きく吸い込んだ。
「はる吉!」
柔らかな歌声がやんで、ゆっくりと彼女が肩越しに振り返った。黒目がちの瞳が俺の姿を認めると、大きく見開かれた。
「ひ、博様!? お早いお帰りだったんですね!」
あわあわと膝の上に乗せていた洗濯物をどけ、立ち上がった彼女はペコンと頭を下げた。
「お出迎えもせず、申し訳ありませんでした!」
「いいからいいから。俺も、いつもより帰ってくるの相当早かったみたいだしね」
「学校が早く終わったのですか?」
「違うよ。はる吉会いたさに、おれがすっごく急いじゃっただけだよ。もしかして、急ぎすぎた?」
人差し指で頬をかくと、はるはぽっと赤く染まって俯いて。それでも、小さく首を左右に振ってくれた。そんな彼女に、俺の頬はにんまりと緩んだ。
「と、とにかくお荷物を」
差し出された手をやんわりと断って、さっきまで彼女が腰かけていた場所の隣に腰を下ろす。はるはきょとんと首を傾げた。
「博様?」
「荷物はいいよ。自分で持ってくし、着替えも自分でする」
「ですが……」
「あ、帽子は脱いどいたほうがいいかな」
言って、被ったままだった学生帽を手に取った。ぱさりと髪が揺れる。
「あ、あの…?」
「残りの洗濯物、畳まなくていいの?」
「博様のお世話が最優先です。私は博様の専属ですから」
あと少しですけど、と小声で付け足した言葉に、はる自身が傷ついたように顔をゆがめた。気付かないフリをして、冗談めかして立ったままの彼女を見上げる。
「だったら、俺のお世話して欲しいなー」
「はい。ですからお部屋に……」
「着替えじゃなくてさ。俺の相手をしてほしいってこと」
ぽんぽん、と隣を叩く。それでもはるは戸惑うように瞳を揺らしたから、彼女の手を掴んで、軽く引き寄せた。
「ひ、博様!」
「座ってよ。きみに話したいこともあるんだ」
「わっ、わかりました。座りますっ、座りますから、手を……、手を、離してください…っ」
はるの声は、消え入るように萎んでいった。小さな手は、微かに震えているようだった。
「やだ…って、言ったら?」
「博様!」
「………うん。わかったよ」
手から力を抜けば、するりと温もりが離れていく。かわりに、とすんと隣で空気が揺れた。りんごみたいに赤いほっぺた。千富さんに怒られても知りませんからね、と書いてありそうな横顔だ。
くすっと肩を揺らすと、はるは不本意だとばかりに唇を可愛らしく尖らせた。
「それで、話したいことってなんですか?」
「あ、それ? うーん。何の話にしようかなぁ」
「なっ! 何もないんですか!?」
「でへへっ。だって、きみと一緒に居たいだけだからさ」
「………もう」
困ったように息をついて、はるは洗濯物を引き寄せた。ぱすんと折りたたんでいるそれは、正か勇、それか進のシャツだろう。微かに、胸が燻った。覚えた苛立ちを早く消したくて、視線を中庭へと移す。
「ねえ、はる吉。さっき、鼻歌歌ってたよね?」
「えっ!?」
ピタリと彼女の手が止まり、仕事の邪魔して申し訳ない反面、してやったりと小さくほくそ笑んだ。その仕事はたえにでもしてもらえばいいよ。今は、……君が務める最後まで、おれの専属使用人なんだからさ。
「聞こえちゃった〜…。でへへ」
「な、ひ、う、」
ぱくぱくと金魚みたいに口を動かすはるのほっぺも、金魚みたいに赤い。
「きれいな声だったから、思わず聞き入っちゃった。あれ、何の歌?」
「ご、ご存じないんですか? ただの子守歌ですよ」
「そ…っか。うーん…。なんとなーく聞き覚えはあったような気はしたけど、子守歌だったのか」
下からはるの顔を覗きこむ。おれの言葉を予測したのか、何も言わないのに、
「う、歌いませんよ! 歌いませんからね!」
彼女は勢いよく首を左右に振った。
「……はる吉のケチ」
「ケチで結構です!」
「ケチケチどケチ!」
「なんとでもどうぞ! 歌いませんったら歌いません!」
よっぽど恥ずかしかったのか、黒髪の隙間から見える耳も微かに色づいている。
「お願いだよ、はる吉。おれ、ほんとに良い曲だって思ったんだ。はる吉の声で、もう一度聞きたいんだ。もう一度だけで、いいから」
手のひらを合わせて見せれば、赤い耳のままではるはそっぽを向いた。でも結局は、優しい彼女。
微かに聞こえてきたのは、柔らかな旋律。優しい声。
雲間からさす光に溶け込むように、空気が揺れる。彼女の隣は、まるで陽だまりのようだ。
その細い肩を、引き寄せることができたなら。小さな身体を、おれの腕の中に閉じ込めることが出来たなら。
両手を広げた。なにもない、からっぽの、てのひら。
再び俺は目を閉じた。彼女が歌い終わるそのときまで、一言一句逃さずに胸にしまう。この時間がずっと続けばいいのに。
叶わない願いだって、わかってる。次第に声は小さくなって、消えていった。おれはそっと、指を折り曲げた。
「……閉じ込められたら、いいのに」
この声を。この瞬間を。
「いつでも好きなときに取り出せるんだ。いつでも……好きなときに」
呟いた言葉の意味がわからなかったのか、はるはただ小さく首を傾げた。
「そういうの、発明できたらいいよね。音と、その光景をいつでも好きなときに楽しめるような機械とかさ、あったらいいって思わない?」
「キネマとは違うんですか?」
「うーん。似たようなものかな。でもキネマは撮るも大変だし、観るのも映画館に行かなきゃならない。おれが言ってるのはもっと手軽なやつなんだ。ほんとに、好きな時に見られるようなの。思い出になるし、そういうのってすごくいいと思うんだ」
「博様、発明はやめたんじゃなかったんですか?」
「やめたんじゃないよ! 発明は趣味!」
唇を尖らせると、はるはくすっと肩を揺らした。
「そうですね……。あったら凄いな、とは思いますけど、でも、本当にあったら困ってしまうかもしれませんね」
「困る? どうして?」
「だって、忘れられなくなってしまいますから。忘れたいのに、忘れなきゃいけないのに、ずっと想ってしまいますから」
はるはそっと目を細めた。静かな微笑みだった。なのに、どうして泣いてるようにみえるんだろう。どうしてこんなに、胸がくるしくなるんだろう。
「……おれは忘れないよ」
確かめるようにつぶやく。
「おれは、忘れない」
握りしめた手のひら。この手のなかには、まだなにもないけれど。
「忘れたくない」
はるは何も言わなかった。その口元から、笑みは消えていた。
「ねえ、はる吉。お願いがあるんだ」
「……ふふ。またですか? 何でしょう」
「さっきの歌、おれに教えてくれない?」
目を丸くしたはるに、開いた手のひらを見せた。
「おれは、まだ何にも持ってないよ。でも、何もできないわけじゃないんだ。はる吉が歌った歌くらいなら覚えられる」
いつでも、好きなときに取り出せるように。
きみの、思い出として。
大切な、思い出として。
「だめ……かな?」
はるは困ったように眉毛を下げて、それでも
「だめじゃないですよ」
と小声で言った。
はるの手に、じぶんの手をそっと重ねる。指を柔らかく折り曲げて、彼女の小さな手を包み込んだ。
何十年さきまで残しておける機械なんかなくたって、柔らかな声が二つ綺麗に重なった秋の夕暮れを、穏やかに空気を震わせたことを、おれはずっと忘れないんだろう。
鮮
や
か
な
ま
ま
で
きっと、ずっと