白い雲みたいな綿飴に唇を寄せて、美奈子は嬉しそうに微笑んだ。けれどすぐに、その眉は悲しげにひそめられる。
「琉夏くん、残念だったね」
「……だな」
 本当は琉夏もいるはずだった花火大会。当日になって急遽花屋のバイトをいれられたアイツは、生活費の為だと溜め息一つでそれを了承した。哀れむ気持ち半分、幸運だと思う気持ち半分、と言ったところか。
いや、むしろ不運なんだろう。美奈子にとっても俺にとっても。
 琉夏がいるのといないのとでは、会話のテンションも違えば流れる空気も違う。アイツがいればまだ自然体でいられるのに、二人きりになるとヘタに意識してしまうから厄介だ。例えば、今日美奈子が頭につけてる簪ひとつとっても、琉夏の軽口があればそれに便乗して「浴衣に似合っていいんじゃねぇか」くらいは言えたはずだ。なのにアイツがいないと、妙に意識しちまって言葉が出てこない。実際、目ェ逸らして「悪かねぇ」としか言えていない。視界の端に美奈子が寂しげに俯いたのが映っていても、俺はどうしたってそれ以上の言葉をかけられなかった。チラリと見え隠れする白いうなじや、揺れるうち合わせなんかに視線を向けるだけで、頭ン中爆発しそうになるのに、目を見て綺麗だなんて、とても言えたもんじゃねぇ。たとえそれが、かけがえのない本音であったとしても。


蛍火の法師



 いつ頃から、だろうか。俺が美奈子を意識し始めてしまったのは。妹っつったらこんなモンだろうぐらいにしか感じていなかった、いつかの日々が懐かしい。いや、そもそもそんな日は本当にあっただろうか。大事だと感じていた意味は、最初から美奈子に対してしか抱けない、特別なモンだったんじゃねぇのか。
 どれだけ足掻いても出口に辿り着かない迷路の中にいるみたいな気分になって、思わず口から漏れた溜め息に、美奈子が視線をあげた。
「つまんない?」
「あー…。そんなんじゃねぇから気にすんな」
「嘘。さっきから琥一くん、私のこと見ない」
「…………んなことねぇだろ」
「じゃあ私の目を見て、同じこと言える?」
「………ッ」
 気付いてたのか。そりゃそうだ。不自然すぎるほど、俺は空に光る星を数えていたような気がする。普段そんなもの、微塵も気にかけてねぇってのに。こんなことなら、いつも星見てああだこうだ言っときゃ良かったか、なんて考えても遅い。語るほどの知識もねーし。
 どうする。どうすりゃいい。そもそもその目が見れねぇんだからどうしようもない。
 うなじに指這わせたらどうなんのかなとか、そのキツそうな帯ほどいてやったらとか、歩くたび揺れる裾にムラついてしょうがねぇとかそんな即物的なモノ以前に、あまりにも好きだと感じる気持ちが強すぎてただマトモに見れないだけだ。にやける頬と熱くなる喉元を隠すのに必死なだけだ。
「……ていっ! 隙あり!!」
「ぃてっ!」
「油断したな、ザマーミロ! ていていっ!」
「てめ、つつくな、」
「案外痛いよね、割り箸! ていっ」
「ヤメロ、コラ」
「やっと見た!」
 さっきまで雲が乗っていたはずの割り箸を、美奈子は楽しげに左右に振った。どうやらそれで俺の腹をつついていたらしい。攻撃力はさほどないが、チクチクとした痛みが浴衣の下が赤くなっていることを想像させた。
「もう、琉夏くん居なくてつまんないのわかるけど、せっかくだし楽しもうよ」
「……別に、そんなんじゃねーって言っただろ」
「てい!」
「ィテ!」
「…………もう」
 言ったきり、美奈子は電柱を背もたれに黙り込んでしまった。暗闇にパキンと音が響く。きっと割り箸を割った音だろう。
 花火が弾けている間は良かった。「キレイだ」だか「うわあ」だか呟く美奈子の横顔を、そっと見ておけば良かったからだ。それに美奈子を見て寄ってくる虫も、俺が傍に立っているだけでそのほとんどが引き下がったし、しぶてぇ奴も多少睨みをきかせりゃ踊るように逃げ出して行った。
 だが花火が終わっちまった今は、ただなんとなく屋台をぶらついているだけで特に会話もない。つまんねぇなんて思ってるのは間違いなく俺じゃなくて、美奈子の方だろう。
 やっぱダメだ。美奈子と2人っきりってのにはどうにも慣れねぇ。美奈子がどう思ってんのか気になって、けど聞くわけにはいかなくて。俺はとうとう口火を切った。
「帰るか」
「え」
「つまんねぇだろ。俺といても」
「琥一くん? 何言ってるの?」
「綿飴も食っちまったんだろ。後なんか要るもんでもあんのか」
「そんな言い方……、わかった。違う。つまんないのは琥一くんなんでしょ」
「は?」
「ごめんね。ここに居るのが琉夏くんじゃなくて」
「何言ってんだお前」
「気付かないフリしてたけど……。もう限界」
 バキンと枝の折れる音がした。何事かと目を凝らせば、美奈子が割り箸を4本持っていた。1本を半分に割ったやつを、さらに割りやがったんだ。それを強く握りしめて、美奈子が俺を睨みあげた。その目の端が水っぽいのは気のせいか。頼む。気のせいだと言ってくれ。
「今日だけじゃない、ここんとこずっと!! ずっと琥一くん、ちゃんと私のこと見ないの! 琉夏くんも居るときじゃないと笑わないの!! 琉夏くんと2人の時は、普通の顔して笑ってるくせに!」
 どうせ私がお邪魔虫! なんてセリフに呆気にとられているうちに、カランと下駄が土を蹴った。思わず手が伸びる。
「はなして!」
「待て、お前なんか勘違、」
「はなしてってば!」
「ッ」
「痛い、バカ!」
 投げつけられたは4本の割り箸だ。思わず目を瞑り、手の力が緩んだ一瞬の隙を美奈子が逃すはずもない。が、逃げられるはずもない。俺の1歩はあいつの5歩だ。肘を捕まえると、俺の親指と中指が繋がって思わず手を離しそうになる。美奈子が振り払おうとしたのを抑えようと、反射で力が籠った。加減がわからない。マジで折れそうだ。そんな俺の気持ちも知らずに、美奈子はぶんぶんと腕を上下に振った。
「はなしてよ! 琥一くんのバカ!!」
「誰が…っ、オラ、振り回すのやめろ」
「離してくれたらやめる!」
「バカ、んなことしたらオマエ逃げんじゃねーか!」
「悪い!?」
「わる…ッ、あー…いや、つか落ち着け、な」
「落ち着いてる…っから、離せっ」
「何言われても離さねぇぞ。…ったく、しょうがねぇな。頼むぜオイ」
「! ……っ。なんで、なんでそんな声出すの」
「あ? そんな声ってなんだよ」
「知らない…。知らないよ……。もうやだ……。私、最悪だ……」
 最後の一振りの後、ぷらんと美奈子の腕は力なく垂れ下がった。繋がれたままの俺の手も、それに引っ張られて下に落ちた。
「これ以上、幻滅されるのヤだ……」
「あ? なんか言ったか」
「……なんでも、ない」
「なんでもねぇって顔してねーぞ、どうした」
「琥一くん、もう落ち着いたから………。離して」
「逃げねぇな?」
「逃げない。だからお願い、離して」
 そんなに触られてんのが嫌か、と暗い考えが頭をよぎった。けれど確かに、これ以上捕まえておけるだけの理由をもっているわけでもない。小さな熱を燻らせながら、俺は手を離した。解放された美奈子の手は力なく彼女の腿のあたりにあたった。
 彼女の言う通りにしたからと言ってさっきまでの会話がなくなるわけではない。重たい沈黙がのしかかってきた。
 メンドクセーな、と零れかけた言葉を口の中でかみ殺す。美奈子が言っていたことはどれも本当のことで、そしてどれも答えるわけにはいかないものばかりだ。ただ、勘違いしていることだけは伝えなければならない。じゃねーと、まるで俺が美奈子と居るよりも琉夏と居てぇと思ってることになっちまう。それだけは避けたかった。ありえねーだろ、いろんな意味でよ。
「あー…、なんつったっけか…ああ、あのな、おまえが邪魔なわけねーだろ」
「嘘」
「嘘ついてどうすんだよ」
「だって琥一くん、私と居ても楽しそうじゃない」
「んなことねーよ。今日だって笑ってただろ」
「笑ってない」
「即答かよ。まあアレだ、あんま笑うタチじゃねーの知ってんだろ」
「琉夏くんといるときはしょっちゅう笑うくせに」
「そりゃアイツがアホだからな」
「ほら、やっぱり私と居ても楽しくないんでしょ」
「いやだから、なんでそうなんだよ」
「前は2人でいるときも笑ってくれてたのに、今は笑わなくなった。3人でいるときは笑ってるのに。琉夏くんといるときだって。それって、ほら、私が邪魔だって思うようになちゃったってことでしょ? 自分で気づいてないだけなんじゃないの?」
「バカ、それだけはねぇよ」
「なんでそう言えるのよ」
 そりゃオマエが好きだからだ。
 心の中では明確な答えがあるのに、美奈子に伝えられる言葉は何一つとして出てこなかった。
 代わりにまたしても「メンドクセェ」と言いかけて、慌てて口の中でかみ殺した。もしここで言おうものなら一生口をきいてもらえないだろう。謝るのすら琉夏経由で、そうなると琉夏は、絶対事情を聞き出そうとするに決まってんだ。つーか「教えないと美奈子にコウが謝ってるって伝えない」なんて言うに違いない。そんなことになってみろ。一生からかわれるだけのネタと借りを、アイツに提供することになっちまう。なんとしてでも、それは免れなければならない。だから、ここで美奈子とケンカするわけにゃいかねーんだよ。堪えろ俺。
「ほら、別にアレだ。笑わねーからつまんねーとか、そんな簡単じゃねーだろ」
「……それは、そうだけど。つまんないから笑わないんじゃないの?」
「俺は美奈子と居る時間が嫌でも嫌いでもねぇ。それじゃダメか」
「そ、うなの?」
「ああ」
「……そうなの?」
「ああ」
「じゃあ、私を見ないのはなんで?」
 そりゃオマエが可愛すぎるからだ。
 なんてそれこそ言えるわけがない。
「なんで?」
「普通だろ、普通」
「普通じゃない。今日なんてね、3回しか目合ってないんだよ」
「もっとあるだろ」
「3回! 大体、どうして話してるのに私のこと見ないの」
 さっき一瞬映った、オマエの目の端にあった水っぽいモンを直視する勇気がないからだ。
「ルセェな。関係ねーだろ」
「ある。だって大事なことなのに」
「ハァ……」
「…っ、ため息つくくらいなら、邪魔なら邪魔だって言」
「違ぇっつってんだろ!」
「!」
「あー…違う、悪ぃ、デケェ声出して」
 静かに美奈子に視線を移すと、気にしてないとでも言うように小さく頭を振っていた。それに合わせて、キラキラと、簪が揺れる。キラキラ、キラキラと。
「――――綺麗だ」
 美奈子がぱっと顔を上げた。それに合わせて、俺も視線を上へ上げる。それでも美奈子の視線が頬に感じられて、小さく舌打ちをした。喉が熱くて仕方がない。言うつもりなんざ、なかったのに。
 だが言ってしまったものは取り繕いようもない。むしろ嘘だなんて言えるはずもなく。
「だから……よ、オマエが、その、綺麗だから、マトモに見れねーんだよ」
「………嘘、」
「嘘じゃねぇ」
「じゃあ今逸らしたのも?」
「あー、クソ…。照れんだよ、こっち見んな」
「最近、私を見てくれないのは?」
「言わせんな」
「綺麗になったから?」
「………そうだ」
「やだ、嘘、」
 こんな恥ずかしい嘘つけるはずねーだろ、しかもやだってなんだ。
 言うつもりのなかった言葉を無理やり引き出されて、そのうえ否定までされてはたまったモンじゃない。なんなんだよ。やさぐれたような気分になって、下駄の端を土に立てた。そのまま蹴り上げていたら、聞こえなかったかもしれない。美奈子は小さく、「嬉しい」と呟いた。思わず、美奈子を見た。嬉しいっつったか、今。
「ちょ、今見ないで。顔ゼッタイ赤い」
「あ、ああ、悪ぃ」
「やだ、琥一くんが謝るのもなんか違う」
「はぁ? ったく、どうしろってんだ」
「どうもしないでいい、ちょっと深呼吸…」
 美奈子が何故そこまで焦っているのかはわからない。しかし、すぅ、はぁ、と大袈裟なまでに大きく呼吸を繰り返したのち、美奈子はようやく、落ち着きを取り戻したようだった。「ごめんね」と小さく呟いてから、視線をさっきまで花火が上がっていた空に向けた。今日何度見上げたかわからない空に、俺も視線を向ける。
 お互い黙ったままの時間はさっきと全く変わらないというのに、今はなぜだか心地よかった。美奈子と居るときのこの空気が好きだと強く思った。苛立ちのない、穏やかな時間。
 それでもさすがに首が痛くなってきた頃、美奈子が独り言のようにつぶやいた。
「きれいになったって言うなら、それは琥一くんのおかげだ」
「あぁ?何言ってんだ、俺ァなんもしてねーぞ」
「うん、何もしてねーな」
「……大丈夫か、オイ」
「大丈夫じゃないかも。ちょっと浮かれてる」
「あー、クソ、意味わかんねー……」
「わかんなくていい。褒めてくれてありがと」
「………別に、褒めてねーよ。本音言っただけだからな」
「もう…。琥一くん口下手なくせに殺し文句すごい」
「はぁ?」
 ダメだ暑い! と美奈子は顔を両手でパタパタと扇いだ。熱いのは俺も同じだ。だからジュース買いに行こうと言った美奈子の提案に、1も2もなく頷いた。彼女が小走りに屋台へと走る。琉夏くんの差し入れの分のジュースも買おうか、なんて言いながら。キラキラと簪が光る。今なら、言えそうな気がした。
「美奈子、その簪、浴衣に」
「ん?」
「…っ、いま、」
 美奈子が振り返った瞬間、その髪に蛍がついているのかと思った。
 けれどそれは、屋台の小さな豆電球の光を簪が反射しただけで。
「どうかした?琥一くん」
「……いや、なんもねぇ。あんま先行くな」
「了解。ん」
 美奈子は何も言わず掌を差し出した。触れても、いいということだろうか。
 俺は相変わらず視線を泳がせながら、その小さな手を包み込んだ。やわらかな温もりが直接伝わってくる。美奈子は俺を引っ張るようにして歩き出した。まるで小さな子供のように。
 さっき、俺に蛍を見せた豆電球によって作り出されている俺たちの影に視線を落とす。その影は、まるで妹と兄のように、それとも、もしかしたらもっと別の関係を持った2人のように、仲睦まじく地面に映しだされいていた。