目を瞑ると、あの時の平助君の言葉が脳裏に蘇る。
『あのさ……。いつかまた女の着物を着るときが来たら、そん時は、他の奴らのいねえ所で、オレに――、俺だけに、見せてくれるか?』
女物の着物を着た私の姿を、他の男の人に見えせたくない。そう言われたときはすごく気恥ずかしかった。けれどその反面すごく嬉しかった。平助君はまぎれもなく男の人で、そんな彼からそういう想いを向けられる日がくるなんて思ってもいなかったからだ。
その時、私は自分の思い違いじゃないかって否定した。それなのにいつの間にか、私の視線は平助君を追うようになっていた。
広間で皆と食事をしているとき、境内の掃除をしているとき、井戸で食器を洗っているとき。
いつだって、どこかから彼の声が聞こえやしないかと探すようになっていた。
そして、そうしているうちに気が付いた。
私が彼の姿を探しているとき、たぶんきっと、彼も私の姿を探しているということに。
目が合ったとき、お互いすぐに視線を外した。そして再び視線を交わすとき、平助君の頬はうっすらと赤みがかっていた。きっとそれは、私も同じことだっただろう。
ため息を大きくついて、閉じていた瞳を開ける。
一瞬で目の前の光景が変わるはずもなく、私の前に置かれた膳には、ほとんど手の付けられていない料理が乗ったままだった。
島原の一角を貸し切ってのどんちゃん騒ぎはいつまで経っても終わりそうになく、私はもう一度目を伏せた。
こうしてまるで隊士の一人のように私のことも呼んでくれたのは嬉しいけれど、私には何だか手持無沙汰だ。
と、いうより。
前方へ視線を向けて、息をそろそろと吐き出した。
芸者さんの甲高い笑い声が耳につく。キリキリと胃が痛むのは、私の心が狭量なことへの罰なのだろう。
出されたお料理を口に入れたけれど、まるで味がせず、飲み下すのに苦労した。
お箸をおいてお茶に手を伸ばすと、影がさした。見上げると、心配そうに眉をひそめた原田さんが立っていた。
「どうした千鶴。そんな顔してちゃ旨え飯もまずくなるぞ」
「…そんなことないです。美味しく頂いてます」
「おいおい、んな顔して食ってるやつが美味えなんて言っても信憑性ねえよ」
「……………」
「なんだ、なんか嫌なことでもあったか」
隣に腰を下した原田さんに、首をゆるく振る。微笑もうと、するけれど、
「ははははっ!」
正面から聞こえてきた平助君の笑い声に、私は顔を俯けてしまった。
「やれやれ……しょうがねえな平助の奴……。だいぶ酔ってるみてえだな」
「えっ? あ、ああ。そうみたいですね」
「……気にすんな。あっちの姉ちゃんも商売なんだからよ」
「はあ…。って、べ、別に気にしてなんかないです!」
慌てて首を振った私に、原田さんは意味ありげに微笑んだ。
「無理するこたねえさ。さっきからチラチラあいつのこと見てんの、しっかり見てたからな」
「うっ……」
息詰まった私を見て、原田さんが苦笑した。
「気になるだろうけどよ、とりあえずここは我慢しちゃくれねえかな。今日の主役は平助なんだし、奢ってくれるって言ったのは事情の知らねえ近藤さんなんだからよ。主役に芸者つけてやろうって考えんのも、なんつーか、親心っつーか…。まあ、あの人にも悪気はねえんだよ。平助も近藤さんに勧められちゃ断れなかったんだろ」
慰めてくれるような口調の言葉に、私は曖昧に頷いた。
平助君に芸者をつけた近藤さんに悪気がないのも、それを断れなかった平助君に他意はないのもわかっていた。 けれど、胃の中がモヤモヤしてしまうのは、もう自分ではどうしようもできないんだ。
きゃあ、という歓声が前方にいる芸者さんからあがった。
「ほんなら、藤堂さん、溺れた子供を助けるために川へ?」
「えーと、まあ、そういうこと」
「それで、その助けた子が身分の高い武家の子やったなんて、あんさんも運が強いんどすなあ」
「別に身分の高い子だったから助けたわけじゃねーよ!そんなの関係なく、俺は人が溺れてたから助けただけだし」
きゃあ、とまた声が上がった。胃がムカムカと反乱を起こす。
「勇気がおありなだけなんやなくて、えらい徳の高いお方なんどすな、藤堂さんは」
「と、徳……!? よ、よくわかんねーけど、まあ悪い気はしねーかな」
「徳が高いゆうんは、良い行いをする、素晴らしいお方ということなんどす」
「そ、そかそか。はは」
そんなのあなたに言われなくても知ってるのに。
ぎゅっと腿の上で作った拳に、原田さんが眉をひそめた。
「それで、剣の腕も強いときたら、もうこんな良い殿方、他にはいらっしゃいませんなあ」
「そんな褒めるなって。まあ助けた子の親も俺が新選組って聞いてめっちゃ驚いてたしな」
「このことが切っ掛けに、新選組の噂も変わってしまうやもしれませんなぁ。藤堂さんのお手柄やわ」
「そ、そっか?」
ギリ、と唇を噛みしめたとき、頭に何かが乗せられた。柔らかくそれが往復する。
俯いていた顔を上げると、なんだか苦しげな表情を原田さんがしていた。不思議に思って数秒見つめると、ふい、と視線を逸らされた。頭に乗せられていた原田さんの手が離れていく。
「千鶴。おまえ、先に帰るか?」
「え……? ですが……」
「無理してここに居る必要ねえよ。なんなら、俺もついていってやる」
「そんな、原田さん、まだあまりお酒飲んでないじゃないですか。お店に入ったときは近藤さんの奢りだととても喜んでいらっしゃったのに」
「そりゃタダ酒ほどうめえもんはねえよ? けどな、千鶴。そんな顔したお前見て、美味え酒が飲めるほど、俺は器用な男じゃねえんだよ」
「原田さん……」
私は徳利を1本手に取った。
「どうぞ。お酌します」
「ん!? そりゃありがたいが……。だがなあ……」
「お気遣い、ありがとうございます。でもやっぱり私、平助君の労をねぎらう場に居たいんです」
彼の功績を称える言葉は、武家の方から連絡があったときにたくさん送った。
だけど、近藤さんが用意してくれたこういう場でも、一緒に喜びを分かち合える距離に居たいと思った。たとえ私の手で彼の酌をついであげることができないとしても。
それでもこの場に居たかった。
「そうか……。そんじゃ、ま、頼むわ」
原田さんはそれ以上何も言わず、盃を私に差し出した。
「はい。………どうぞ」
とくとくとくと注いだお酒を、原田さんはおいしそうに飲み干した。
「……お前がついでくれる酒はやっぱ違うな」
「え?」
「もう一杯、頼むぞ千鶴」
「あ、はい」
きゃあ、という笑い声も、もう耳につかなくなっていた。
原田さんの嬉しそうな顔に私もほっこりと心が緩められたのかもしれない。
と、
「ちょっと左之さん、コイツに手え出すのやめてくんない!?」
「へ、平助君……っ!?」
いつの間にかに、私たちの前に平助君が仁王立ちで立っていた。
「さっきから見てりゃ頭撫でたり酌してもらったり、左之さんばっかずりーっての!!」
「はあ!? 何言ってんだよ。テメエが芸者と遊んでっから俺は千鶴を気遣ってだなあ…!」
「だーかーらっ! そういうことをやめてくれって言ってんの! コイツは俺のだかんな!」
威勢よく言い放った言葉に私も原田さんも目を丸くした。静まり返った場に、平助くんが目を瞬く。その頬はお酒のせいでほんのりと赤く染まっていた。
「……なんだよ?俺なんか変なこと言った?」
「い、いや……。別におかしなことは言っちゃいねえが……」
原田さんは曖昧に言葉を濁し、俯く私にちらりと視線を寄越した。それを感じて、私はますます頭を下げた。そんなことをしても赤くなっている耳は丸見えなんだから、無駄な抵抗だということはわかっている。それでも顔なんて上げられなかった。頬が熱くてたまらない。
平助君はきっと深い意味で言ったんじゃない。そうに決まってる。
心の中で何度も何度も繰り返して、平静を取り戻そうと強く目を瞑る。思い出すなと念じれば念じるほど、頭の中の平助君が今の言葉を声にした。
ぶんぶんと頭をふりたくなる気持ちをなんとか押さえつけて、耳を両手で隠す。
と、原田さんが小さく笑う気配がした。
「あー……。千鶴、酒、ありがとな」
「え?」
「んじゃま、邪魔者は退散するとして…。あとはお二人さんで仲良くしろよ?」
「は、原田さ…っ!?」
ふわりともう一度私の頭に手を置いたあと、原田さんはするりと席を立った。その背中を平助君が不満そうに睨みつけながら見送る。宴会の場からも出ていこうとする原田さんを永倉さんが呼び止めた。どうやら私たちの会話は聞こえていなかったらしい。
「おい左之、どこ行くんだ?」
「んー? 便所だ便所。酔いが覚めちまってな。なんなら新八、お前も来るか?」
「もう出しちまうのか?そんなもったいねーこと俺にゃできねえ!うんにゃできねえ!」
「お前なあ…」
そんなやりとりが遠くのほうで聞こえた。原田さんが座っていた場所には、どっかりと平助君が腰を下ろしている。
違うのは、私に背を向けていることだ。なんとなく私も、平助君に背をむけるように体の方向を変えた。
何を言ったらいいのかわからなくて、お互い口を噤む。
さっきの言葉の意味を確かめたいような、確かめるのが怖いような、そんな奇妙な気持ちに陥っていた。それに、さっきの芸者さんにとっていた平助君の締まらない態度も、まだ胸のうちでは燻っていた。
どうしてこうなっちゃったんだろう。平助君を労う宴会だったはずなのに。
重いため息が喉元までせりあがってきたのをなんとか飲み込んだ。お茶を飲もうと湯呑に手を伸ばしたけれど、空だった。諦めて膳の上にカタンと置けば、同時に平助くんもカタンと音を立てて私の膳の上に湯呑を置いた。
「……飲めよ。俺、酒呑んでるからいらねーし」
「え……でも」
「いいから」
「………ありがとう」
湯呑を取り上げて、ふと疑問に思う。どうして背を向けて座る彼に、私の湯呑がもう空なことがわかったんだろう。
そっと両手で抱えると、情けない顔をした自分がたゆたう水面に映っていた。
「……千鶴」
「ん?」
「………千鶴」
確かめるように平助君は幾度か私の名前を呼んだ。いくら返事をしても何も言わない彼に疑問を抱き、後ろをフ帰った。
小さな、それでいてまっすぐと伸びた背中しか見えなかった。
ことん、と一口も口に含んでいない湯呑を膳の上に置く。居住まいを正して、平助君に向き直った。
「平助君?」
「千鶴」
「もう、どうしたの?」
つい苛立ちを露わにした口調に、平助くんがようやく振り返った。と、
「っ!!?」
途端に彼は私の頭に手を乗せた。
「へ、平助く……?」
「…………」
何も言わずに、何度もその手を往復させる。微妙に怒ったような顔をしていったけれど、表情とは裏腹に、優しい、慈しむようなその手つきだった。どうしていいかわかなくて、私は視線を横に逸らせた。頬が赤くなるのがわかる。
「あ、あの……」
「…………」
「平助君…?」
「……痛いの痛いの飛んで行けー……ってな」
「え?どこも痛くない、よ……?」
「……いーんだよ。俺がこうしたいだけ」
次第に平助君の強張った表情は溶けていった。いつもの、悪戯っぽい笑みを口元にやどしている。
「お前って体だけじゃなくて、頭もちっちゃいのな」
「そ、そうかな。それより、ねえ、恥ずかしいんだけど……」
「そっか?俺は全然恥ずかしくねーよ」
平然と返されて、私はただ顔を俯かせた。手つきだけじゃなくて、平助くんの目はすごく優しい色をしていたから、どうしていいのかわからなくなってしまった。
目を瞑ると、彼の言葉が脳裏によみがえってくる。
私の勘違いじゃないよね?平助くんも同じ気持ちでいてくれてるんだよね?
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
伝えてしまおうか。
私も芸者さんに焼きもちやいちゃったんだってことを。
原田さんに平助くんが焼きもちやいてくれて嬉しいと感じていることを。
とろとろと眠りに落ちてしまいそうな、彼の優しい手つきに励まされて、私は決意を固めた。
「平助くん!」
勢いよく顔をあげる。
「んー…?」
「えと、あのね、私……っ!!」
その続きを、言葉にすることは出来なかった。唖然として息を飲み込む。
「………平助君?起きてる?」
「ばっか……。起きてる、起きて、る……し……」
「半分は寝てるよね!?眠たいんでしょう!?」
「んな、わけねー…だろぉー……。新八ッ…つぁんじゃ……」
あるまいし、とモゴモゴ口の中でつぶやいた後、平助くんはぱたんと前に倒れた。丁度私の膝の上に頭を乗せて。
「ちょ、ちょっ……っ!!」
心の中で上げた悲鳴は、誰に届くはずもなく。お腹の底からため息をついて、穏やかな寝息をたてる平助君に視線を落とした。そっと彼の髪に手を伸ばす。起こさないように細心の注意を払いながら、その髪を撫でた。
伝わってくる温もりに、土方さんが解散を口にするまで、脚が痺れるのも我慢して身を任せていたのだった。
次の日になって、全く覚えていないと笑う彼に覚えた軽い殺意は、そっと私だけの胸にしまっておくことにした。
「けどさ、天国かってくらいすげえ幸せで、気持ち良かったんは覚えてんだよ。なんか、忘れらんねーんだよな」
と、首を傾げた平助君に、赤くなった頬を隠すことはできなかったけれど。
『あのさ……。いつかまた女の着物を着るときが来たら、そん時は、他の奴らのいねえ所で、オレに――、俺だけに、見せてくれるか?』
女物の着物を着た私の姿を、他の男の人に見えせたくない。そう言われたときはすごく気恥ずかしかった。けれどその反面すごく嬉しかった。平助君はまぎれもなく男の人で、そんな彼からそういう想いを向けられる日がくるなんて思ってもいなかったからだ。
その時、私は自分の思い違いじゃないかって否定した。それなのにいつの間にか、私の視線は平助君を追うようになっていた。
広間で皆と食事をしているとき、境内の掃除をしているとき、井戸で食器を洗っているとき。
いつだって、どこかから彼の声が聞こえやしないかと探すようになっていた。
そして、そうしているうちに気が付いた。
私が彼の姿を探しているとき、たぶんきっと、彼も私の姿を探しているということに。
目が合ったとき、お互いすぐに視線を外した。そして再び視線を交わすとき、平助君の頬はうっすらと赤みがかっていた。きっとそれは、私も同じことだっただろう。
ため息を大きくついて、閉じていた瞳を開ける。
一瞬で目の前の光景が変わるはずもなく、私の前に置かれた膳には、ほとんど手の付けられていない料理が乗ったままだった。
島原の一角を貸し切ってのどんちゃん騒ぎはいつまで経っても終わりそうになく、私はもう一度目を伏せた。
こうしてまるで隊士の一人のように私のことも呼んでくれたのは嬉しいけれど、私には何だか手持無沙汰だ。
と、いうより。
前方へ視線を向けて、息をそろそろと吐き出した。
芸者さんの甲高い笑い声が耳につく。キリキリと胃が痛むのは、私の心が狭量なことへの罰なのだろう。
出されたお料理を口に入れたけれど、まるで味がせず、飲み下すのに苦労した。
お箸をおいてお茶に手を伸ばすと、影がさした。見上げると、心配そうに眉をひそめた原田さんが立っていた。
「どうした千鶴。そんな顔してちゃ旨え飯もまずくなるぞ」
「…そんなことないです。美味しく頂いてます」
「おいおい、んな顔して食ってるやつが美味えなんて言っても信憑性ねえよ」
「……………」
「なんだ、なんか嫌なことでもあったか」
隣に腰を下した原田さんに、首をゆるく振る。微笑もうと、するけれど、
「ははははっ!」
正面から聞こえてきた平助君の笑い声に、私は顔を俯けてしまった。
「やれやれ……しょうがねえな平助の奴……。だいぶ酔ってるみてえだな」
「えっ? あ、ああ。そうみたいですね」
「……気にすんな。あっちの姉ちゃんも商売なんだからよ」
「はあ…。って、べ、別に気にしてなんかないです!」
慌てて首を振った私に、原田さんは意味ありげに微笑んだ。
「無理するこたねえさ。さっきからチラチラあいつのこと見てんの、しっかり見てたからな」
「うっ……」
息詰まった私を見て、原田さんが苦笑した。
「気になるだろうけどよ、とりあえずここは我慢しちゃくれねえかな。今日の主役は平助なんだし、奢ってくれるって言ったのは事情の知らねえ近藤さんなんだからよ。主役に芸者つけてやろうって考えんのも、なんつーか、親心っつーか…。まあ、あの人にも悪気はねえんだよ。平助も近藤さんに勧められちゃ断れなかったんだろ」
慰めてくれるような口調の言葉に、私は曖昧に頷いた。
平助君に芸者をつけた近藤さんに悪気がないのも、それを断れなかった平助君に他意はないのもわかっていた。 けれど、胃の中がモヤモヤしてしまうのは、もう自分ではどうしようもできないんだ。
きゃあ、という歓声が前方にいる芸者さんからあがった。
「ほんなら、藤堂さん、溺れた子供を助けるために川へ?」
「えーと、まあ、そういうこと」
「それで、その助けた子が身分の高い武家の子やったなんて、あんさんも運が強いんどすなあ」
「別に身分の高い子だったから助けたわけじゃねーよ!そんなの関係なく、俺は人が溺れてたから助けただけだし」
きゃあ、とまた声が上がった。胃がムカムカと反乱を起こす。
「勇気がおありなだけなんやなくて、えらい徳の高いお方なんどすな、藤堂さんは」
「と、徳……!? よ、よくわかんねーけど、まあ悪い気はしねーかな」
「徳が高いゆうんは、良い行いをする、素晴らしいお方ということなんどす」
「そ、そかそか。はは」
そんなのあなたに言われなくても知ってるのに。
ぎゅっと腿の上で作った拳に、原田さんが眉をひそめた。
「それで、剣の腕も強いときたら、もうこんな良い殿方、他にはいらっしゃいませんなあ」
「そんな褒めるなって。まあ助けた子の親も俺が新選組って聞いてめっちゃ驚いてたしな」
「このことが切っ掛けに、新選組の噂も変わってしまうやもしれませんなぁ。藤堂さんのお手柄やわ」
「そ、そっか?」
ギリ、と唇を噛みしめたとき、頭に何かが乗せられた。柔らかくそれが往復する。
俯いていた顔を上げると、なんだか苦しげな表情を原田さんがしていた。不思議に思って数秒見つめると、ふい、と視線を逸らされた。頭に乗せられていた原田さんの手が離れていく。
「千鶴。おまえ、先に帰るか?」
「え……? ですが……」
「無理してここに居る必要ねえよ。なんなら、俺もついていってやる」
「そんな、原田さん、まだあまりお酒飲んでないじゃないですか。お店に入ったときは近藤さんの奢りだととても喜んでいらっしゃったのに」
「そりゃタダ酒ほどうめえもんはねえよ? けどな、千鶴。そんな顔したお前見て、美味え酒が飲めるほど、俺は器用な男じゃねえんだよ」
「原田さん……」
私は徳利を1本手に取った。
「どうぞ。お酌します」
「ん!? そりゃありがたいが……。だがなあ……」
「お気遣い、ありがとうございます。でもやっぱり私、平助君の労をねぎらう場に居たいんです」
彼の功績を称える言葉は、武家の方から連絡があったときにたくさん送った。
だけど、近藤さんが用意してくれたこういう場でも、一緒に喜びを分かち合える距離に居たいと思った。たとえ私の手で彼の酌をついであげることができないとしても。
それでもこの場に居たかった。
「そうか……。そんじゃ、ま、頼むわ」
原田さんはそれ以上何も言わず、盃を私に差し出した。
「はい。………どうぞ」
とくとくとくと注いだお酒を、原田さんはおいしそうに飲み干した。
「……お前がついでくれる酒はやっぱ違うな」
「え?」
「もう一杯、頼むぞ千鶴」
「あ、はい」
きゃあ、という笑い声も、もう耳につかなくなっていた。
原田さんの嬉しそうな顔に私もほっこりと心が緩められたのかもしれない。
と、
「ちょっと左之さん、コイツに手え出すのやめてくんない!?」
「へ、平助君……っ!?」
いつの間にかに、私たちの前に平助君が仁王立ちで立っていた。
「さっきから見てりゃ頭撫でたり酌してもらったり、左之さんばっかずりーっての!!」
「はあ!? 何言ってんだよ。テメエが芸者と遊んでっから俺は千鶴を気遣ってだなあ…!」
「だーかーらっ! そういうことをやめてくれって言ってんの! コイツは俺のだかんな!」
威勢よく言い放った言葉に私も原田さんも目を丸くした。静まり返った場に、平助くんが目を瞬く。その頬はお酒のせいでほんのりと赤く染まっていた。
「……なんだよ?俺なんか変なこと言った?」
「い、いや……。別におかしなことは言っちゃいねえが……」
原田さんは曖昧に言葉を濁し、俯く私にちらりと視線を寄越した。それを感じて、私はますます頭を下げた。そんなことをしても赤くなっている耳は丸見えなんだから、無駄な抵抗だということはわかっている。それでも顔なんて上げられなかった。頬が熱くてたまらない。
平助君はきっと深い意味で言ったんじゃない。そうに決まってる。
心の中で何度も何度も繰り返して、平静を取り戻そうと強く目を瞑る。思い出すなと念じれば念じるほど、頭の中の平助君が今の言葉を声にした。
ぶんぶんと頭をふりたくなる気持ちをなんとか押さえつけて、耳を両手で隠す。
と、原田さんが小さく笑う気配がした。
「あー……。千鶴、酒、ありがとな」
「え?」
「んじゃま、邪魔者は退散するとして…。あとはお二人さんで仲良くしろよ?」
「は、原田さ…っ!?」
ふわりともう一度私の頭に手を置いたあと、原田さんはするりと席を立った。その背中を平助君が不満そうに睨みつけながら見送る。宴会の場からも出ていこうとする原田さんを永倉さんが呼び止めた。どうやら私たちの会話は聞こえていなかったらしい。
「おい左之、どこ行くんだ?」
「んー? 便所だ便所。酔いが覚めちまってな。なんなら新八、お前も来るか?」
「もう出しちまうのか?そんなもったいねーこと俺にゃできねえ!うんにゃできねえ!」
「お前なあ…」
そんなやりとりが遠くのほうで聞こえた。原田さんが座っていた場所には、どっかりと平助君が腰を下ろしている。
違うのは、私に背を向けていることだ。なんとなく私も、平助君に背をむけるように体の方向を変えた。
何を言ったらいいのかわからなくて、お互い口を噤む。
さっきの言葉の意味を確かめたいような、確かめるのが怖いような、そんな奇妙な気持ちに陥っていた。それに、さっきの芸者さんにとっていた平助君の締まらない態度も、まだ胸のうちでは燻っていた。
どうしてこうなっちゃったんだろう。平助君を労う宴会だったはずなのに。
重いため息が喉元までせりあがってきたのをなんとか飲み込んだ。お茶を飲もうと湯呑に手を伸ばしたけれど、空だった。諦めて膳の上にカタンと置けば、同時に平助くんもカタンと音を立てて私の膳の上に湯呑を置いた。
「……飲めよ。俺、酒呑んでるからいらねーし」
「え……でも」
「いいから」
「………ありがとう」
湯呑を取り上げて、ふと疑問に思う。どうして背を向けて座る彼に、私の湯呑がもう空なことがわかったんだろう。
そっと両手で抱えると、情けない顔をした自分がたゆたう水面に映っていた。
「……千鶴」
「ん?」
「………千鶴」
確かめるように平助君は幾度か私の名前を呼んだ。いくら返事をしても何も言わない彼に疑問を抱き、後ろをフ帰った。
小さな、それでいてまっすぐと伸びた背中しか見えなかった。
ことん、と一口も口に含んでいない湯呑を膳の上に置く。居住まいを正して、平助君に向き直った。
「平助君?」
「千鶴」
「もう、どうしたの?」
つい苛立ちを露わにした口調に、平助くんがようやく振り返った。と、
「っ!!?」
途端に彼は私の頭に手を乗せた。
「へ、平助く……?」
「…………」
何も言わずに、何度もその手を往復させる。微妙に怒ったような顔をしていったけれど、表情とは裏腹に、優しい、慈しむようなその手つきだった。どうしていいかわかなくて、私は視線を横に逸らせた。頬が赤くなるのがわかる。
「あ、あの……」
「…………」
「平助君…?」
「……痛いの痛いの飛んで行けー……ってな」
「え?どこも痛くない、よ……?」
「……いーんだよ。俺がこうしたいだけ」
次第に平助君の強張った表情は溶けていった。いつもの、悪戯っぽい笑みを口元にやどしている。
「お前って体だけじゃなくて、頭もちっちゃいのな」
「そ、そうかな。それより、ねえ、恥ずかしいんだけど……」
「そっか?俺は全然恥ずかしくねーよ」
平然と返されて、私はただ顔を俯かせた。手つきだけじゃなくて、平助くんの目はすごく優しい色をしていたから、どうしていいのかわからなくなってしまった。
目を瞑ると、彼の言葉が脳裏によみがえってくる。
私の勘違いじゃないよね?平助くんも同じ気持ちでいてくれてるんだよね?
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
伝えてしまおうか。
私も芸者さんに焼きもちやいちゃったんだってことを。
原田さんに平助くんが焼きもちやいてくれて嬉しいと感じていることを。
とろとろと眠りに落ちてしまいそうな、彼の優しい手つきに励まされて、私は決意を固めた。
「平助くん!」
勢いよく顔をあげる。
「んー…?」
「えと、あのね、私……っ!!」
その続きを、言葉にすることは出来なかった。唖然として息を飲み込む。
「………平助君?起きてる?」
「ばっか……。起きてる、起きて、る……し……」
「半分は寝てるよね!?眠たいんでしょう!?」
「んな、わけねー…だろぉー……。新八ッ…つぁんじゃ……」
あるまいし、とモゴモゴ口の中でつぶやいた後、平助くんはぱたんと前に倒れた。丁度私の膝の上に頭を乗せて。
「ちょ、ちょっ……っ!!」
心の中で上げた悲鳴は、誰に届くはずもなく。お腹の底からため息をついて、穏やかな寝息をたてる平助君に視線を落とした。そっと彼の髪に手を伸ばす。起こさないように細心の注意を払いながら、その髪を撫でた。
伝わってくる温もりに、土方さんが解散を口にするまで、脚が痺れるのも我慢して身を任せていたのだった。
次の日になって、全く覚えていないと笑う彼に覚えた軽い殺意は、そっと私だけの胸にしまっておくことにした。
「けどさ、天国かってくらいすげえ幸せで、気持ち良かったんは覚えてんだよ。なんか、忘れらんねーんだよな」
と、首を傾げた平助君に、赤くなった頬を隠すことはできなかったけれど。
不安定な僕ら→不安定な僕らの不確実な未来→息をするように愛して→じれったいのと口遊む
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