輝ける君よ
 制服がようやく彼らに馴染みはじめた初夏。俺がネクタイを結ぶのに、時間がかからなくなってきた頃だ。勉強を好きになれないと悲しげに呟いた彼女に、全力でぶつかってみろと勧めたのは自分だった。
 時間をかければかけるほど、一生懸命になればなるほど、まっすぐに向き合えば向き合うほど、その対象に愛を抱くことができると。
 愛せと、言った。自分がぶつかれる全てを愛せと。それが青春だと。
 小波は、キラキラと瞳を輝かせて、頑張ると意欲をたぎらせた。まだあどけなさの残る横顔で、彼女は大きく頷いてくれた。
 いつの間にかに、それからもう2年が過ぎようとしている。
 宣言通り小波は、勉強にも、部活にも、学校行事にも、そのほか学生ができる、学生しかできない全てを、全力で愛していった。
 期末テストで、学年1位になった。文化祭の売り上げが、校内1位になった。体育祭でも、堂々の1位をとった。はば学嫁さん候補にも、1位に輝いた。そんな彼女は、今年のローズクイーン候補ナンバーワンだ。
 それだけじゃない。
 不二山が起した柔道部を懇親的に支え、今日もまた、不二山と新名の夏合宿を支えるべく汗を流している。全力で、一生懸命に何かを愛そうと取り組むときにだけ、流せる汗だ。

 熱い陽射しに、思わず手をかざした。校舎から校舎へと移動するだけの、それだけの時間でもぶわっと汗が噴き出る。
 合宿の監督役ではあるが、その準備及び運営のほとんどを、不二山や小波にまかせきりにしていた。必要以上に、彼女に近づいてはいけない。呪いのようにそう繰り返して、相談にくる彼らを、彼女を、「何があっても責任は先生がとるから、思うようにやってみろ!」と、「先生、おまえらになら何を任せて安心だぁ!」と、かわしていた。
 不二山と、他の男と、話している姿を見たくないとか、仲良くしているところを見たくないとか、そんな、それこそ真っ直ぐ受け止められない、受け止めてはいけないのは、自分の感情だ。頭を抱えたくなる。
 あと少しで職員室のある校舎にたどりつくその時に、どこからか笑い声が聞こえてきた。男女のそれだと思う前に、ああ小波だとわかった。それから、もう一人の聞き覚えのある声の持ち主は、たぶん新名だ。
 不二山はいないのだろうか。会話は二人の声で構成されている。何を話しているのか、そこまではわからない。
 あと数歩でクーラーのかかった校舎に入れるというのに、足が止まった。二人のところに向かうでもなく、ただ、止まった。なんの邪念もなければ、彼らのところに顔を出せる。でも、俺はためらった。ためらってはいけないのに、ためらってしまった。部活を頑張る、愛すべき生徒二人に、激励の、労いの言葉を送るのに、なんのためらいもいらないはずなのに、何故。足が止まる。動かない。
 何故?
 それに気づいてはいけない。わかってはいけない。
 そのまま突っ立っていると、声がだんだん近づいてくるのがわかった。プールの陰から、やはり小波と新名が、横切ってくるのが見えた。
 ああ、綺麗な横顔だ。全身で、全力で、真正面から、部活に、はば学にぶつかっている。愛している。なんて綺麗な、横顔。
 笑い声が不意に途切れた。視線を逸らせる暇もないまま、小波が俺を見つけた。
 時が止まる。地球は回転しているはずなのに、風は吹き続けているのに、鼓動は確かに血を巡らせているのに、時だけが止まる。動けない。
 手をあげれば、表情をくずせば、この視線の交わりに何の意味もないということが示せるのに。まるで脳と神経が切り離されたかのように動かない。動けない。
 でも、それは俺だけだった。世界中でただひとり、俺の時だけが止まっていた。そう、花は可憐に咲いたんだ。
「あ、大迫ちゃん!」
 小波が誰に向かって笑顔で手を振っているのかと、彼女の視線を辿ってきた新名と目が合ってようやく、金縛りから解ける。
「お、おー! やってるかぁ?」
「もうクタクタっすよ〜! 嵐さんも美奈子さんも容赦ないんスもん」
「それは新名くんが逃げようとするからでしょ」
「何ぃ? 新名、逃げるのはよくないぞ〜?」
「ちょ、違う! 逆だって逆! 容赦ないから逃げるんじゃんかよ! ヒッデェなぁ、もう」
 掠れた俺の第一声は、誰に不思議がられることもなく流れた。しょぼんと肩を落とした新名に、俺と小波の笑い声が、プール脇に木霊する。
 笑い声。俺のそれは、乾いた笑い声だった。
「………先生?」
 聡い小波がそれに気付かないわけもなく、窺うように小首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「ん? 何のことだぁ?」
「だって、なんだか……」
 無理して笑ってるみたい。
 真っ直ぐに、しかも的確に、俺の仮面に向かって放たれた言葉に対し、また乾いた笑い声で返す。
「ハハハッ。バレたかぁ! 実は先生、今からお説教だぞぉ」
「えっ? 同じクラスの人のですか?」
「違う違う!」
「ま、まさか琉夏くんか琥一くんじゃ」
「それもちがーうっ。実はなぁ、先生がお説教されるんだぁ!」
「えっ?」
「何? もしかしてヒムロッチ?」
「おっ! 新名、大正解だぁ!」
「えっ! マジで当たり? 大迫ちゃん何したんだよ〜」
「それは秘密だぁ!」
 嘘じゃない嘘はついてない。でも事実でもない。
 職員室に向かうのは、夏期講習のことで氷室先生と話があるからだ。夏期講習の頻度や内容について、氷室先生からのアドバイスを貰う予定だ。少し甘いのでは、と言われているから多少の説教も混じるだろう、でもそれはなんの苦でもない。生徒を思えばこそ厳しくするのは当たり前だからだ。
「じゃあ先生、行ってくるぞ。新名、お前も逃げずに全力で立ち向かえ。それが青春だぁ!」
「……押忍」
 力の抜けた返事にまた笑って、俺は残りの数歩を歩いた。立ち止まる。校舎まであと一歩。クーラーの効いた、冷えた空気が漂う校舎まで、あと一歩。
「小波」
 あと一歩なのに。口を開いてしまった。もう引き戻れない。それでも、紡ぎかけた言葉は抑え込んだ。
「……あんまり無理はするなよー? 倒れたら元も子もないからなぁ!」
「は、はい!」
 大きな返事に、俺は小さくうなずいた。
 クーラーで冷やされた心地よい空気が、身を包んだ。
 それ以上素敵になってくれるな、なんて言えるわけのない言葉を言いたくて仕方ない自分に、熱が上がってどうしようもない自分に、落ち着けと諭しているようだった。






初大迫先生。大迫先生ステキすぎて涎が止まらない。