井戸から汲み上げた水で食器を洗い終わり、額を腕でぬぐった丁度そのときだった。
「千鶴ちゃーん!」
 大声で私の名を呼んだのは沖田さんだ。大手を振り、後ろに何かを引きずっている。
「沖田さん。起きてて大丈夫なんですか?」
「うん? 別に、大丈夫だよ。伊藤さんも変な動きしてるし、寝てばっかりはいられないよね」
「……そうですね。ここのところ、屯所内の雰囲気も何だか穏やかじゃないような気がします」
「へえ。やっぱり君もそう思う?もうホント、さっさと消えてくれたらいいのに」
「おっ、沖田さ……っ! そ、それより、どうしたんですか?」
 話題を変えようと、首をかしげて見上げると、沖田さんはにんまりと顔中で笑った。
「それがさ、そのこと以外にも朝から僕をイライラさせてくれる奴がいて、もう鬱陶しいったらないんだよね。千鶴ちゃん、なんとかしてくれない?」
「え? 私が……ですか?」
「そうだよ」
 ぐっと沖田さんが後ろに引きずっていたものを引っ張った。大きな物か何かだろうと思っていた私は、あまりの衝撃に息を大きく飲んだ。ぱっと口を手で覆う。
「さ、さい、斎藤さん!!!」
 青白い顔をした斎藤さんが、気持ち悪そうに頭を垂れていたのだった。
「だ、大丈夫なんですか!? 斎藤さんっ! ま、まさか死………っ!?」
 慌てて彼の目の前で手を左右に振る。
 沖田さんが首巻きを引っ張ってることで、引きずりながら連れて来られたせいで、彼の首元にはくっきりと布の後が残っていた。首を絞められた状態とほとんど変わりはない。
 かなりぼうっとしていたようだが、徐々に目の焦点が戻ってきた。それでも、顔色は今までにないほど悪い。
「や……っ!! 斎藤さん、嫌です、死なないでください…っ」
「……この、くらいでは……死なん」
「あっはは。千鶴ちゃんは大袈裟なんだから」
「ちょ、何言ってんですか沖田さん! 首巻き引っ張られたら誰だって窒息…っ!」
「問題……ない……。息を、止めて……いれば……」
 疲れたのか、随分と長い息を吐き出してから、
「同じことだ」と斎藤さんは続けた。次第に赤みがさしかかってくる肌に、私はほっと息をついた。なんだかどうでもよさそうな態度の斎藤さんについ詰め寄ってしまう。
「首を絞められてたんですよ!? 同じことじゃないでしょう!」
 彼はすぐには答えず、幾度が深呼吸を繰り返して肺に空気を送り込んだあと、
「そういえば苦しかった気もする」と言った。
 しっかりとした口調もその表情も、もういつもの斎藤さんのそれだったが、素っ頓狂な答えだと思った。
 それもこれもこんなやり方で彼をここまで引っ張ってきた沖田さんのせいだ。強い視線で沖田さんを睨みあげる。
「沖田さん!! もう少し人の命というものを……っ!」
 ふーっと、隣で息を吐く音がした。
「千鶴。諦めろ」
「何で斎藤さんが諭すんですかー!!!」
 思わず口走った言葉に、沖田さんと斎藤さんは顔を合わせて苦笑した。
 付き合ってられないと感じた私は布巾を手に取った。さっき洗い終わった食器を拭いてしまわなければならない。彼らに背を向け、食器が浸かるたらいの前に腰を落とした。
 もう、一体何をしに来たというんだろう。斎藤さんが沖田さんを苛立たせるなんて思えないし、もしそれが本当だったとしても、私がどうこうできるはずもないのに。
 ぼそぼそと聞こえてくる彼らの会話は、聞きたくなくても耳に入ってきた。
「それで、何故俺はここに居る?」
「あれ、まさか一君、覚えてないとか?」
「全く。何にも」
「どのあたりから覚えてないの?」
「……朝、食事を終えてから総司の部屋へ行った」
「うん。それで?」
「……………そこからは、何も」
「ええ!? ホントに?」
「ああ」
「……無理やり引っ張ってきちゃったせいで記憶がおかしくなっちゃったのかなあ」
「その可能性は否定できない」
「じゃあ僕にも少しは責任があるってことか」
「用がないなら行くぞ」
「ちょ、待ってよ一君!用ならあるんだって。君が、あの子に」
「俺が、千鶴に?」
「そうだよ」
「………別に用などない。時間の無駄だ」
「ホントに? 本当にそう思ってる?」
「…………どういう意味だ」
「おーい、千鶴ちゃーん! ちょっとこっちにおいでよー!」
 振り返った沖田さんに、慌てて顔を背けた。けれどもう遅い。
「聞こえてるよねー? 怒ったりしないからおいで」
 うう、やっぱり気付かれてた……。
 盗み聞きをしていたのがばれてしまったような居心地の悪さを感じながら、私は立ち上がった。別に聞きたくて聞いていたわけじゃない。彼らが私の仕事をするすぐそばで声も絞らず話しているほうが悪いと思う。
 多少の興味を持って聞いていなかったと言えば嘘になるけど。
 沖田さんと斎藤さんの間に立って、私は彼らを交互に見上げた。
 斎藤さんがぱっと視線を逸らせたのに対し、沖田さんはさっきと同じように顔中に笑みを作っていた。
「それで、どういうことなんですか?」
「うん。今からそれを説明するとこ。覚えてないっていう一君のためにもね」
 斎藤さんは何も言わずにそっと目を伏せた。
「千鶴ちゃんも知っての通り、伊藤さんは今すごく不審な動きをしてる。朝餉の後、一君が僕の部屋を訪れたのもそのことについてだったんだ。伊藤さんから直接、今度夕食に招待したいからいつがいいかって聞かれたんだっけ?」
「……そうだ。口止めはされなかった」
「それで、僕のとこにも同じような誘いがなかったか聞きに来たんだよ。生憎、お声はかかってなかったけれどね。全く、1番組組長のこの僕を差し置いて一君を誘うなんてあの人も何を考えてるんだか」
「伊藤さんも馬鹿じゃない。お前が誰より局長を慕っていることくらいわかるだろう」
「それを言うなら一君だって土方さんの金魚のフンじゃないか」
「……俺は俺のしたいようにしているだけだ」
「あっそ。まあいいや。とにかく、始めのうちはさ、そんな真面目な話だったんだ。それが何故だか、千鶴ちゃん。君のことになってね」
「……えっ!? わ、私ですか!?」
 急に水を向けられて、私は思わず自分を指さした。
 斎藤さんが瞑っていた目を開いた。沖田さんを睨むようにしている。
 そのことに沖田さんも気付いているだろうに、構わず彼は続けた。
「一君がもう、うるさくって。『千鶴は今の状況をどう受け止めているだろうか』とか『父親探しもままならず元気がないようだ』とか『顔色も優れないようだ。夜は眠れているのか』とか『もし許されるなら俺が添い寝した』」
「総司!!」
 大声を出した斎藤さんが沖田さんの口を手で塞ぐ。首をぐるんと回して、唖然とする私を見た。
「断じて言っていない!」
「は、はい!」
 その勢いに、思わず私も大きく頷いて返事をした。
 沖田さんが斎藤さんの手を放そうと必死でもがく。
「ふご、ご、っ、もう! 放してよ一君!」
「戯言を言うのはやめろ、総司」
「嘘は言ってないよ、僕」
「俺はそんなことを口にした覚えはない!」
「あっれー? 一君、覚えてないんじゃなかったっけ?」
 意地悪そうに笑った沖田さんに、斎藤さんは視線を外した。
「…………思い出しただけだ」
「そう? だったら千鶴ちゃんの顔を見て、僕に言ったことと同じことを言ってみせてよ」
「俺は……」
 深い息を吐いて、斎藤さんは沖田さんから体を離した。
 黙り込む斎藤さんに、沖田さんが「しょうがないなあ」と呟いて私を見た。
「そういうわけだからさ、千鶴ちゃん。後は君がなんとかしてよ」
「え、ええ!?」
「正直なところ、一君が君のことでぐちぐち言うのを聞くのは僕もうウンザリなんだよね。直接君に聞いたらって言っても全然聞く気配ないし。見てるだけでイライラして、こんなんじゃ僕、胃に負荷がかかりすぎて死ぬかも」
「そんな…っ、で、でも……っ」
「とにかく、そういうわけだから。じゃあね」
「沖田さん!」
「総司!!」
 ひらりと手を振った沖田さんは、私たちに背を向けて歩き出した。
 場に残された二人が気まずく俯く。横目でちらりと斎藤さんを見ると、彼も丁度そうしたところで、慌ててお互い目を逸らした。
 でも、ずっとこうしているわけにはいかない。それに沖田さんに斎藤さんが話したということも気になった。正直に言えば、とても、いや、ものすごく、気になっていた。
 私は思い切って口火を切った。
「あ、あの……沖田さんが言っていたことは本当なんですか……?」
「…………」
 まるで苦虫を噛み潰したような表情をして、斎藤さんがため息をついた。
 やっぱり聞いてはいけなかったことだったんだろうか。
 俯いた私に
「千鶴」と、斎藤さんがまっすぐ向き直って言った。
「さっき総司が言ったことはでたらめだ。信じるな」
「は、はい」
「俺は、ただ、その……」
 言いにくそうに、斎藤さんは手を彼の白い首巻きにかけた。口元をそれで覆い隠す。
「不便があれば、言え。遠慮はいらん」
「え?」
「可能な限り対処する。お前の処遇が決まった日にそう言ったはずだ」
「あ、はい。覚えてます」
「………それだけだ」
 パコン、と音がした。
「っ!?」
 斎藤さんが頭を押さえて勢いよく振り返る。私も彼と同じ視線の先を辿ったけれど、誰もいなかった。芽吹き始めた草木が、ただ風に揺れているだけだった。斎藤さんの足元には、さっきまでなかったはずの小さな石ころが転がっていた。
 それを屈んで拾い上げた彼は、何もないはずの方向へと大きく投げた。
「……えっと…」
 どうしていいかわからず、とりあえず言葉を出すと、斎藤さんが面映ゆそうに頬を染めた。より一層深く、口元を首巻きで隠す。けれど、何かを決めたように顔を上にあげた。さっと、勢いよくその覆いを取り払う。
 視線は、まっすぐに私を射抜いた。
「頼れ、と言っているんだ」
「え?」
「この情勢下だ。滅多なことは言わないほうがお前の身のためであるということは忘れるな。その上で言う。千鶴。あんたは考えていることが顔に出やすい。それでは言っているのとさして違いはないだろう」
「ご、ごめんなさい」
「別に叱っているわけではない。ただそれが事実であるというだけだ。思っていることをすべて吐露しろとは言わない。だが、己の器を過信しすぎるな。全て抱えていられるほど、あんたは強くない」
「は、はい……」
 頷くと、斎藤さんは目元を緩めた。安心したかのようにそっと微笑む。
「別に俺でなくても構わない。お前がお前の考えのもと、信用に値すると思った人間にのみ話せばいい」
「………はい」
「俺が言いたかったことはそれだけだ。あんたが暗い顔をしているとどうにも調子がでない」
「えっ?」
 思わず聞き返すと、斎藤さんがぱっと視線を逸らした。その頬は薄く色づいている。
「別に俺だけの話じゃない。左之や平助だって同じだ。皆お前が落ち込んでいると気にかけている」
 斎藤さんの言葉に、胸が熱くなった。きゅっと両手を胸の上で重ねる。
 温かい想いがこぼれてしまわないように、私の中に留めておけるように。
「ありがとうございます……」
「そうやって笑っていろ」
 ふわりと、頭に斎藤さんの手が乗った。何度か往復したのち、斎藤さんは微かに微笑んで
「邪魔立てして悪かった」
 と手を放した。さっきの優しい雰囲気は一瞬で姿を消し、いつもの無表情な斎藤さんに戻った。
「い、いえ、そんな…っ!」
 慌てて首を振った私に、斎藤さんは感情の籠らない平坦な口調で、
「もう昼も近い。飯の用意をしなければならないな」
 と呟いた。
「俺は調理場に行く。お前もお前の務めを果たせ」
「はっ、はい…!」
 最後にもう一度だけふわりと微笑んで、斎藤さんは私に背を向けた。
 胸がとくとくと脈打って、暗い気持ちなんてどこかに吹き飛んでしまったようだった。

 この緩んだ頬では、斎藤さんに何か相談したくてもできるはずもない。
 『顔に出やすい』と言った彼の言葉は、全くもってその通りだと思った。

◇◆◇

「……出てこい、総司」
「わかってるってば。痛かった?」
「…………」
「睨まないでよ、怖いなあ」
「思ってもいないことを言うな」
「思ってもいないこと言ってたのは一君の方でしょうに」
「あれが俺の本音であることには変わりない」
「そうかもしれないけど。『相談するなら俺にしろ』って言わなくて良かったの?」
「別に」
「ふうん? 千鶴ちゃん、左之さんとかに相談しちゃうかもよ?」
「………いいんじゃないか。あの人なら悪いようにはしないだろう」
「素直じゃないねえ」
「お前ほどじゃないさ」
「どういう意味さ、それ」
「わからないか?」
「わからないね」
「そうか……。だったら、昼飯を楽しみにしてるんだな」
「え……、それ、ほんとにどういう意味?」
「さあな」
「はーぁ。一君って案外根に持つ方だよね……。僕のだけ味付けおかしくするとかやめてよ。これでも一応病人なんだからさ」
「都合のいい時だけ病人振るのはやめておけ」
「ちぇっ」
「悪いようにはしないさ。感謝する」
「えっ!? どうしちゃったのさ、一君、まさか君、一君の着ぐるみかぶった敵ってわけじゃないよね?」
「知らん」

遠ざかっていく二人の会話が、私に聞こえる由もなかった。





旧:君色想い。キャラ同士が絡んでいるのを書くのは楽しすぎる。結果、長くなる…orz