神さま。願い事はたったひとつです。
現世では、もうこれ以上望めないほどの幸せを頂きました。
だから、だからどうか。
「こんなとこにいたの?」
ガサ、と草木を分ける音がするまで、私は背後に人が忍び寄ってきていたことになんて、これっぽっちも気が付かなかった。後ろを振り返れば、不敵な笑みを浮かべた総司さんが木を陰にして立っていた。
「い、いつから、そこに……?」
「ん? たった今だよ。何? 聞かれて困るようなことでもしてたとか?」
「いえ、そんなんじゃないです」
ふうん、と呟いた総司さんが足を踏み出すと、その体が前に大きくよろけた。
「危ないっ!!」
咄嗟に体が動いていた。彼を支えようと手を伸ばす。ずっしりとした重みに負けまいと足に力を入れて、なんとか踏みとどまった。体ごと彼を包み込むと、柔らかな草の匂いがした。
「………ありがと。僕は大丈夫」
「良かっ………っ!?」
顔をあげると、総司さんがくっきりとした笑みを顔に刻んでいた。抱き支えていたのは私だったはずなのに、いつの間にかに抱きしめられていた。
「な……っ!?」
「言ったでしょ。僕は大丈夫だって。君はどこも怪我してない?」
「大丈夫です…けど、騙したんですか!?」
「やだな。よろけたのは本当だよ。でも、ちょっと大袈裟だったかな」
「もう…っ! もう!!」
ぽかぽかと彼の胸を叩けば、
「ちょ、痛いよ、千鶴」と、さして痛くもなさそうに私をいなした。それでもやめないでいると、叩く隙間もないくらい、ぎゅっと抱きしめれられた。呼吸が苦しいほどの強さだ。
「総司さ……?」
「君が、悪いんだよ」
耳元に息がかかった。そっと囁く彼の声はか細い。腕の力強さとは裏腹に、頼りなげな声色だった。まるで小さな子供が迷子になって震えているかのように。
「買い物に行ったきり、全然帰ってこない君が悪い」
「総司さん………」
「あんまり心配させないでくれる?」
「………ごめんなさい」
確かにいつもなら半刻ほどで戻っていたのに、今日はずいぶんとここで時間を過ごしてしまったような気がする。彼はきっと一人きりで野に横たわり、私の帰りを待っていたのだろう。
今日は雨上がりで足場も悪い。ここは山奥だから、もし立場が逆だったら嫌な想像が頭をめぐっていたことだろう。
総司さんはたった一人でそんな思いと戦いながら私を探してくれたんだ。
そう思うと、胸が小さく締め付けられた。
「本当に、ごめんなさい」
「もういいよ。随分と探し回ったけど、こうしてちゃんと見つけることもできたしね。それで、こんなへんぴなところで一体何してたのさ」
私の頭に顎を乗せたまま、総司さんはあたりを見回した。
「そんなに時間つぶせるくらい、面白いものでもあった?」
「面白いものじゃないです。ただ、八百物屋のおじさんから桜の話を聞いて、居てもたってもいられなくなってしまって」
「桜? どんな話?」
「ここの土地にある伝承か、何かみたいなんですけど…。『春来たるとき、その清き神は舞い降りる。信仰の恩返しとして、1本のその桜木に込められた願いを叶えんがために』」
聞いたままの言葉を継げると、総司さんは考え深げに頷いた。
「それ、僕が知ってる話と同じかも。僕が聞いた話は、『春の精は桜の木に降りる。優しき人々へ信仰の恩返しをせんがために。その精は時として神をも凌ぐ力を得よう。かの地にありし1本の桜木に込められた願いを叶えんがために』っていう内容だったんだけど。少し似てるよね」
どれがその木?と、総司さんが腕の力を緩めた。もぞもぞと体をねじらせて、腕の間から顔を出す。先ほどまで私がお祈りをしていた、幹の太い大きな木を指さした。
「おじいさんの話では、あれが『1本の桜木』らしいんです」
「へえ……。なんの変哲のない普通の木にしか見えないな。それで? 千鶴はそんなに一生懸命に何を祈ったの?」
「え?」
「何か祈ってたからこんな時間になったんでしょ? まあ君の場合、木を探し回って時間食ったって可能性もあるわけだけど」
「それは、その……」
「僕には言えないこと?」
総司さんの瞳が小さく揺らぐのが見えた。首を振って否定強く否定する。
「来世のことを」
「来世?」
「はい」
頷けば、総司さんは困ったように笑った。
「普通今のことを祈るもんじゃない? もっとこうしてほしいとか、ああなればいい、とかさ。相変わらず、君ってば変わってるよね」
「そうでしょうか…」
「そうだよ。自覚がないとこも変わってる。まあ、君らしくてすっごくいいけどね」
「はあ……。でも、今がとても幸せなので、これ以上望んだら罰があたっちゃいますよ」
「はははっ!そっか。うん。それもそうだね。僕も同じだ。今が、すごく満ち足りてる」
「でしょう?」
暖かな彼の手が、私の頭を撫でた。優しく包み込むように。存在を確かめるように。
私は総司さんを抱きしめる手にきゅ、と力を籠めて応えた。
「ねえ、千鶴……。だったらさ、君は来世について何を祈ったの?」
「それは……」
「それは?」
「その、笑いませんか?」
「君の願いって笑っちゃうようなものなの?」
総司さんの袖口から、野の匂いが香った。目を瞑って、その香りで胸を満たす。
幸せだった。彼の腕の中は優しさに満ちていて、他には何もいらないと言えるくらい、心満ち足りていた。
どうか、この幸せがずっとずっと続きますように。
素直にそのことを祈れたら、どれだけ良かっただろう。
でも、私は知っている。私たちは知っている。
いつか必ず、終わりのときが来るということを。
もう一度、胸いっぱいに野の匂いを吸い込んだ。先ほど桜の木に向かって唱えた言葉を口にする。
「どうか、どうか来世は総司さんと同じいのちを持って生まれますように」
予想外の願いだったのか、総司さんは真意を図りかねるように首をかしげた。
「同じ命……、って、どういうこと?」
「同じ命です。犬だって猫だって蝶だって、例え蛙であったとしてもいい。総司さんと同一体として、この世に生を受けたいんです」
「よく、わかんないんだけど、別々の人間じゃダメなの?」
「ダメです」
「なんでさ」
「なんでもです」
「……それってちょっと微妙だな。死んだら二度と出会えないってことになるんじゃない?」
「会いますよ。同じ生を受けたときに溶け合うんです」
不満げな唸り声が頭上から降ってきた。首を傾げて総司さんを見上げる。彼は目を瞑って眉をひそめていた。
どうしてそうなるかな、と呟いた後、大袈裟なまでのため息をつく。
「それってさ、もう君をからかったりできないってことだよね。口付けたり、抱き締めたり、愛してるって伝えることも出来ない」
「はい、そうなると思います」
「君はそれでいいの? そんな人生、僕は絶対遠慮したいんだけど」
「……それでも、それでも私は祈ります」
「本気?」
「……はい」
「僕を許してくれるんじゃなかったっけ?」
「それとこれとは、また別の話です」
「……君って時々、残酷なこと言うよね」
苦笑いをして、総司さんは私の体を離した。自由に伸びた草の道を、しっかりとした足取りで歩く。何も言わずに、神さまが舞い降りるという桜の木の前に彼は腰を落とした。
私ももう一度、その木の前に座った。そっと横を見ると、総司さんは静かに手を合わせていた。丹精なその横顔からは、どんな感情も読み取ることは出来ない。ただ睫毛を伏せて祈る姿は、真剣そのものだった。
彼が私とは違うことを祈っていることは、なんとなく予想できた。
それでも私は、変わらぬ思いで目を瞑った。
別固体である以上別れは必然的に訪れる。
来世で再び出会えたとしても、再び別れが訪れる。
それだけは嫌だった。絶対に、嫌だった。
カサ、と草と草が重なり合う音に目を開ける。総司さんはすでに祈りを終えたのか立ち上がっていた。腰に手を当てて、じっと太い幹を見つめている。
「千鶴」
「はい」
私も立ち上がって総司さんの隣に並んだ。着物の裾についた土埃をそっと払う。
「もし、君が願ったままに僕らが生まれ変わったなら、そのとき僕は、一生誰も好きにならない。誰も愛さない。どうしてか、君にわかる?」
「……どうして、ですか?」
「千鶴」
「え?」
「君がいないからだよ」
ぽつりと言葉を落として、総司さんは私の手を取った。
「もういい? そろそろ帰ろうよ」
「え、あ、はい」
「君の祈りが届くか、僕の祈りが届くか、来世のお楽しみだね」
買った青物も、いつのまにか総司さんが抱えてくれていた。
彼の手をきゅっと握り返す。ふわりと満足そうに総司さんが笑った。それだけで胸がいっぱいになる。
この幸せは今だけでいい。別れは一度きりで十分だ。十分すぎるくらいだ。彼と離れることを想像するだけで身が切れるほどに痛くて、胸がつまる。呼吸の仕方さえ、わからなくなる。
何故、どうして、別れなんてものがあるんだろう。
神さま、どうか、どうかお願いです。
もう一度生まれ変わるなら、彼と同じ命を授かりますように
二度と、別れが訪れたりしませんように。
現世では、もうこれ以上望めないほどの幸せを頂きました。
だから、だからどうか。
「こんなとこにいたの?」
ガサ、と草木を分ける音がするまで、私は背後に人が忍び寄ってきていたことになんて、これっぽっちも気が付かなかった。後ろを振り返れば、不敵な笑みを浮かべた総司さんが木を陰にして立っていた。
「い、いつから、そこに……?」
「ん? たった今だよ。何? 聞かれて困るようなことでもしてたとか?」
「いえ、そんなんじゃないです」
ふうん、と呟いた総司さんが足を踏み出すと、その体が前に大きくよろけた。
「危ないっ!!」
咄嗟に体が動いていた。彼を支えようと手を伸ばす。ずっしりとした重みに負けまいと足に力を入れて、なんとか踏みとどまった。体ごと彼を包み込むと、柔らかな草の匂いがした。
「………ありがと。僕は大丈夫」
「良かっ………っ!?」
顔をあげると、総司さんがくっきりとした笑みを顔に刻んでいた。抱き支えていたのは私だったはずなのに、いつの間にかに抱きしめられていた。
「な……っ!?」
「言ったでしょ。僕は大丈夫だって。君はどこも怪我してない?」
「大丈夫です…けど、騙したんですか!?」
「やだな。よろけたのは本当だよ。でも、ちょっと大袈裟だったかな」
「もう…っ! もう!!」
ぽかぽかと彼の胸を叩けば、
「ちょ、痛いよ、千鶴」と、さして痛くもなさそうに私をいなした。それでもやめないでいると、叩く隙間もないくらい、ぎゅっと抱きしめれられた。呼吸が苦しいほどの強さだ。
「総司さ……?」
「君が、悪いんだよ」
耳元に息がかかった。そっと囁く彼の声はか細い。腕の力強さとは裏腹に、頼りなげな声色だった。まるで小さな子供が迷子になって震えているかのように。
「買い物に行ったきり、全然帰ってこない君が悪い」
「総司さん………」
「あんまり心配させないでくれる?」
「………ごめんなさい」
確かにいつもなら半刻ほどで戻っていたのに、今日はずいぶんとここで時間を過ごしてしまったような気がする。彼はきっと一人きりで野に横たわり、私の帰りを待っていたのだろう。
今日は雨上がりで足場も悪い。ここは山奥だから、もし立場が逆だったら嫌な想像が頭をめぐっていたことだろう。
総司さんはたった一人でそんな思いと戦いながら私を探してくれたんだ。
そう思うと、胸が小さく締め付けられた。
「本当に、ごめんなさい」
「もういいよ。随分と探し回ったけど、こうしてちゃんと見つけることもできたしね。それで、こんなへんぴなところで一体何してたのさ」
私の頭に顎を乗せたまま、総司さんはあたりを見回した。
「そんなに時間つぶせるくらい、面白いものでもあった?」
「面白いものじゃないです。ただ、八百物屋のおじさんから桜の話を聞いて、居てもたってもいられなくなってしまって」
「桜? どんな話?」
「ここの土地にある伝承か、何かみたいなんですけど…。『春来たるとき、その清き神は舞い降りる。信仰の恩返しとして、1本のその桜木に込められた願いを叶えんがために』」
聞いたままの言葉を継げると、総司さんは考え深げに頷いた。
「それ、僕が知ってる話と同じかも。僕が聞いた話は、『春の精は桜の木に降りる。優しき人々へ信仰の恩返しをせんがために。その精は時として神をも凌ぐ力を得よう。かの地にありし1本の桜木に込められた願いを叶えんがために』っていう内容だったんだけど。少し似てるよね」
どれがその木?と、総司さんが腕の力を緩めた。もぞもぞと体をねじらせて、腕の間から顔を出す。先ほどまで私がお祈りをしていた、幹の太い大きな木を指さした。
「おじいさんの話では、あれが『1本の桜木』らしいんです」
「へえ……。なんの変哲のない普通の木にしか見えないな。それで? 千鶴はそんなに一生懸命に何を祈ったの?」
「え?」
「何か祈ってたからこんな時間になったんでしょ? まあ君の場合、木を探し回って時間食ったって可能性もあるわけだけど」
「それは、その……」
「僕には言えないこと?」
総司さんの瞳が小さく揺らぐのが見えた。首を振って否定強く否定する。
「来世のことを」
「来世?」
「はい」
頷けば、総司さんは困ったように笑った。
「普通今のことを祈るもんじゃない? もっとこうしてほしいとか、ああなればいい、とかさ。相変わらず、君ってば変わってるよね」
「そうでしょうか…」
「そうだよ。自覚がないとこも変わってる。まあ、君らしくてすっごくいいけどね」
「はあ……。でも、今がとても幸せなので、これ以上望んだら罰があたっちゃいますよ」
「はははっ!そっか。うん。それもそうだね。僕も同じだ。今が、すごく満ち足りてる」
「でしょう?」
暖かな彼の手が、私の頭を撫でた。優しく包み込むように。存在を確かめるように。
私は総司さんを抱きしめる手にきゅ、と力を籠めて応えた。
「ねえ、千鶴……。だったらさ、君は来世について何を祈ったの?」
「それは……」
「それは?」
「その、笑いませんか?」
「君の願いって笑っちゃうようなものなの?」
総司さんの袖口から、野の匂いが香った。目を瞑って、その香りで胸を満たす。
幸せだった。彼の腕の中は優しさに満ちていて、他には何もいらないと言えるくらい、心満ち足りていた。
どうか、この幸せがずっとずっと続きますように。
素直にそのことを祈れたら、どれだけ良かっただろう。
でも、私は知っている。私たちは知っている。
いつか必ず、終わりのときが来るということを。
もう一度、胸いっぱいに野の匂いを吸い込んだ。先ほど桜の木に向かって唱えた言葉を口にする。
「どうか、どうか来世は総司さんと同じいのちを持って生まれますように」
予想外の願いだったのか、総司さんは真意を図りかねるように首をかしげた。
「同じ命……、って、どういうこと?」
「同じ命です。犬だって猫だって蝶だって、例え蛙であったとしてもいい。総司さんと同一体として、この世に生を受けたいんです」
「よく、わかんないんだけど、別々の人間じゃダメなの?」
「ダメです」
「なんでさ」
「なんでもです」
「……それってちょっと微妙だな。死んだら二度と出会えないってことになるんじゃない?」
「会いますよ。同じ生を受けたときに溶け合うんです」
不満げな唸り声が頭上から降ってきた。首を傾げて総司さんを見上げる。彼は目を瞑って眉をひそめていた。
どうしてそうなるかな、と呟いた後、大袈裟なまでのため息をつく。
「それってさ、もう君をからかったりできないってことだよね。口付けたり、抱き締めたり、愛してるって伝えることも出来ない」
「はい、そうなると思います」
「君はそれでいいの? そんな人生、僕は絶対遠慮したいんだけど」
「……それでも、それでも私は祈ります」
「本気?」
「……はい」
「僕を許してくれるんじゃなかったっけ?」
「それとこれとは、また別の話です」
「……君って時々、残酷なこと言うよね」
苦笑いをして、総司さんは私の体を離した。自由に伸びた草の道を、しっかりとした足取りで歩く。何も言わずに、神さまが舞い降りるという桜の木の前に彼は腰を落とした。
私ももう一度、その木の前に座った。そっと横を見ると、総司さんは静かに手を合わせていた。丹精なその横顔からは、どんな感情も読み取ることは出来ない。ただ睫毛を伏せて祈る姿は、真剣そのものだった。
彼が私とは違うことを祈っていることは、なんとなく予想できた。
それでも私は、変わらぬ思いで目を瞑った。
別固体である以上別れは必然的に訪れる。
来世で再び出会えたとしても、再び別れが訪れる。
それだけは嫌だった。絶対に、嫌だった。
カサ、と草と草が重なり合う音に目を開ける。総司さんはすでに祈りを終えたのか立ち上がっていた。腰に手を当てて、じっと太い幹を見つめている。
「千鶴」
「はい」
私も立ち上がって総司さんの隣に並んだ。着物の裾についた土埃をそっと払う。
「もし、君が願ったままに僕らが生まれ変わったなら、そのとき僕は、一生誰も好きにならない。誰も愛さない。どうしてか、君にわかる?」
「……どうして、ですか?」
「千鶴」
「え?」
「君がいないからだよ」
ぽつりと言葉を落として、総司さんは私の手を取った。
「もういい? そろそろ帰ろうよ」
「え、あ、はい」
「君の祈りが届くか、僕の祈りが届くか、来世のお楽しみだね」
買った青物も、いつのまにか総司さんが抱えてくれていた。
彼の手をきゅっと握り返す。ふわりと満足そうに総司さんが笑った。それだけで胸がいっぱいになる。
この幸せは今だけでいい。別れは一度きりで十分だ。十分すぎるくらいだ。彼と離れることを想像するだけで身が切れるほどに痛くて、胸がつまる。呼吸の仕方さえ、わからなくなる。
何故、どうして、別れなんてものがあるんだろう。
神さま、どうか、どうかお願いです。
もう一度生まれ変わるなら、彼と同じ命を授かりますように
二度と、別れが訪れたりしませんように。
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