不二山
鼻腔をくすぐる香ばしい香りに、美奈子は思わず顔をしかめた。
「まさか、ここで食べるつもり?」
「じゃなかったら、わざわざお前の席まで来ねーよ」
封を破りたてのカツサンドを嵐はがぶりと噛みついた。
シャキシャキと小気味良い音に、ゴクリと生唾がわく。
「んめぇ」
言いながら、再び大きくがぶりとカツサンドを口に含んだ嵐に美奈子は軽く殺意が芽生えた。
「ねえ、私、言ったよね? ちょっと体重増えちゃったって。もうすぐ夏だからダイエットしなきゃって」
「んー。聞いたような気もする。それがどうかしたんか?」
どうしたもこうしたもない。
ダイエット宣言をしている女子を前にして、見せびらかすように美味しそうなカツサンドを頬張るなんて非人道的行為にもほどがある。ましてや、今はただの休み時間、昼食をとる昼休みではない。つまり絶妙に小腹がすく時間だった。
カツとマヨネーズの匂いが空腹を煽る。
どうしよう、すごく食べたい。横取りしたい。いっそ一口でも良い。
「ん、っとと」
パンから食み出たレタスを嵐が慌てて押さえる。その瑞々しさったらない。
今日のお昼はおにぎり1つ。昨日の晩御飯も納豆とお味噌汁だけだった。
そのひもじさを思い出して余計にお腹がすいた気がする。今すぐ購買に走りたい。カツサンド、いや私はツナサンドが食べたい。それにたまごサンドも。
って、違う!
「嵐くん、一生のお願いがあるの」
今すぐ目の前から去ってほしい。そして二度と、食べ物を持って近づかないで欲しい。
「ん。ごっそーさん」
カツサンドを包んでいた紙をくしゃくしゃに丸めながら、嵐が言った。
「やっぱお前の傍で食べるのが一番うめーや」
唇の端にマヨネーズが少しついた、すごく良い笑顔だった。
「で? お願いってなんだ?」
美奈子は黙って、そのマヨネーズを拭って食べた。
新名
遠くで光る電灯から届く微かな明かりを頼りに、新名は彼女の鞄を掴んだ。
薄闇の中、その指が微かに震えていることに美奈子は気付いたらしい。
「どうしたの?」
「どうしたっつーか、美奈子ちゃん、ほんとにこの道通るつもり?」
「うん。だってこっちのほうが近いし」
単純明快な答えには、繊細さのかけらもない。
もっとも、彼女にそんなものが備わっていれば墓地の裏手のこの鬱蒼とした小道を通ろうなどとは言いださないはずだが。
「それか、ここでバイバイでもいいよ?」
遠慮する彼女に、送ると言い張ったのは自分のほうだった。ここで逃げては男が廃る。
震える膝を励まして、小さく首を振った。
ほんのり眉毛を下げて、美奈子が手を差し出した瞬間。
ガサリ、と、前方から大きな音がした。
お互いの肩がビクリと跳ねたのが、空気の振動で分かった。
「ちょ、何、今の音」
「わかんない。新名くん、何か見えた?」
再びガサリと葉の揺れる音がして、目を凝らす。ガサガサと鳴る音は止まない。
「あ、でも、なんかいるっぽい。普通に葉っぱ揺れてるだけだし」
どうやら生い茂った野草の合間をするすると動く動物がいるらしかった。
原因不明の超常現象には寒気がするが、何か物理的事象があってのことなら怖くなかった。
「大丈夫、もう行ったよ……って、美奈子ちゃん?」
「あ、う、うん、良かった。ちょっとびっくり――しちゃったね?」
裏返った声は明らかに動揺している。
「ほ、ほら。行こう、新名くん」
差し出す前に手を取られた。
「何か出てきても、私が守ってあげるから」
どうやら美奈子は目に見えないものは怖くなくても、正体不明の何かは怖いらしい。
そうとわかればお互い様である。新名は少し余裕を取り戻した。
「ん。りょーかい。変なヤツが出たら、俺が守ってあげるから」
「……何よ、急にカッコつけちゃって。新名くんの手、震えてるわよ」
挑戦的な目に、新名は唇を尖らせた。小刻みに震えているのは美奈子の手だった。
小さくて柔らかなそれを新名はしっかりと握りしめ、強引にジャケットのポケットの中へと捻じ込んだ。
設楽
高校卒業と同時に俺と美奈子は付き合いを始めた。
それから2回別れて、2回よりを戻し、そして別れた。
会えなくて辛いと美奈子が泣き、会えないのが苦しいと俺が追いかけた。
同じ道ではいられないと俺が突き放し、違う道の良さがあると美奈子が説いた。
そして互いに忙しくなり、いつのまにか連絡も切れ切れになっていった。
その間、別の人間に惹かれたこともあった。その変化に自分で戸惑い、けれど受け入れ認めていた。
ふと思い出して懐かしむ。かつての自分の証であり、想い出の拠り所となっていった美奈子の存在。
それでいいと思っていた、はずだった。
「お待たせしました、聖司さん」
「ああ、待ったな。でも5分くらいだろ。いいから行くぞ」
「はい。……なに考えてたの?」
「別に、なにも」
「嘘。空をすごく睨んでましたよ」
「睨んでないし、何も考えてない。いいから、ほら、手」
「そうやってすぐごまかす…。付き合い長いんだから、聖司さんが何か悩んでるくらいわかるんです、私」
「残念だったな。お前の思い違いだ。少し昔を思い出していただけで、別に悩み事なんてないよ」
「昔?」
「むしろ未来かもな。もういいだろ、この話は」
「はぁい。でも聖司さん、今日は変な服じゃなくて良かった」
「……待てよ、その言い方だと俺が変な服を着ていたみたいじゃないか」
「着てましたよ。変な服っていうか、変装っていうか。むしろ逆に目立ってました。いくら世界的なピアニストさんでも、みんな顔までいちいち覚えてないのに」
「うるさい。アレが完璧だと思ったんだ」
「却って逆効果だった、と。でも再会できたのもあの変装のおかげだったから、文句は言えないかもです」
「いや…。お前が声をかけなくても、俺が気付いてた」
「まさかぁ。私なんてただの一般人ですよ。地元じゃないんですし、人ごみにまぎれて気づきませんって」
「他の人間にとってはそうだろうな。でも俺は違う」
「?」
「観客じゃないんだよ、お前。光ってるみたいに自然と目が見つける。惹きつけられるんだ。何か塗ってるんじゃないか」
「ちょ、ちょっ! 普通にメイクしてるだけですっ。くすぐったいなぁ」
「……どんなに離れても、別の女を好きになっても、お前に会えば全てが嘘みたいに消えてなくなる。無駄なんだ。だったらもう、俺はそれを受け入れるしかないだろ」
「それ……って、告白?」
「さあな」
「……何それ。ずるい」
「ずるいのはお前のほうだろう。俺はお前以外愛せないんだから」