琉夏
仕事で疲れたため息を噛み殺しながらアパートの重たいドアを開けると、キッチンからほんのりと明かりが漏れている。
香ばしい匂いに美奈子は眉を上げた。今日の夕飯担当は琉夏だというのに、野菜を炒める匂いがする。
美奈子と暮らし始めて4年。琉夏の偏食傾向は少しずつだが修正されていっているらしい。
「おかえり、美奈子」
満面の笑みには仕事の疲れが飛ぶほど癒される。
「うん、ただいま」
少しだけ軽くなった足取りで脱衣所に向かう。ストッキングを引きおろし、スカートのホックに手をかけた、ところでふと視線に気づいて顔をあげる。
キッチンに戻ったとばかり思っていた琉夏がなぜかそこに居た。
「琉夏くん? 着替えたいんだけど」
「うん。そのまま着替えて? 俺のことは気にしないでいいから」
にこにこ。
言葉のキャッチボールがあやふやなのはいつものことだが、表情が随分と緩んでいる。美奈子は服を脱ぐ手を止めて琉夏に向き直った。
「何かあったの?」
待ってましたとばかりに笑みを大きく頷く。
「すげーいいこと。美奈子もきっと喜ぶ」
「私も? えー、なんだろ?」
「早く美奈子に見せたかったんだ。おかげで今日1日中そわそわしてて危ないヤツになってた、俺」
微かに照れながら、琉夏はそっと握りしめた掌を開いて見せた。
「今日、出来上がったんだ」
濃紺のベルベット生地。四角くて小さな箱。
美奈子は浅く息を吸い込んだ。中身は開けなくてもわかる、気がする。
「夕飯さ、野菜炒めにしてみた。これからは家族の栄養のことも考えなくちゃって、思ったんだ」
静かにリングケースが開かれる。
小さなダイヤが埋め込まれた指輪が行儀よく納まっていた。控えめながらも、確かな輝き。
「俺と結婚してください」
突然のプロポーズはまさか脱衣所で行われた。急すぎる展開に思考が追いつかない。
ただ、琉夏の真剣な目と野菜炒めの香りが現実なのだと教えてくれていた。
本当なんだと、信じることができた。止まっていた息をそろそろと肺から吐き出す。
「ふつつかものですが、よろしくお願いします」
スカートのホックが外れていることも忘れてお辞儀をする。
よほど気が張っていたのか、琉夏が安心したかのように大きなため息をついた。
「よかった。すげぇ緊張した」
「ふふ。私も、なんか緊張した」
「指輪、はめてもいい?」
「うん、もちろん」
左手を差し出す。取り出した指輪を薬指にくぐらせようとした瞬間。
「っくしゅっ!!」
思わずくしゃみをした美奈子の身体が大きく跳ねた。カランと指輪が床に落ち、コロコロコロカツン、と転がった末に何かにぶつかる音がした。
視線を床に落としてさっと見回しても、先ほどの輝きは見当たらない。
青い顔で琉夏を見上げる。見つめ合うこと数秒。
琉夏はにっこりと笑った。
「とりあえず、あったまろっか」
「え、ちょっ」
さっと抱きかかえられ、スカートが完全に足から抜けた。冷えた体に琉夏の温もりが直接伝わる。
「1名様、ベットにごあんなーい」
指輪は案外すぐに見つかった。
その後チンして食べた野菜炒めは、人生で一番美味しく思えた。
紺野
『すこし先輩の声が聞きたくなりました』
送られてきた一文を読んで、玉緒はひとつ大きく深呼吸を入れた。
携帯の画面を操作して送り主のアドレスを呼び出す。躊躇う数秒に大した意味はないが、美奈子に電話をかけるときはいつも少しだけ緊張した。
心の準備が整いきらないうちに、呼び出し音は数回で途切れた。
「紺野先輩?」
「…こんばんは、美奈子さん。今日も勉強遅くまで頑張ってるみたいだね」
「すみません。分からない問題があったんじゃなくて、ただ……、どうしても紺野先輩の声が聞きたくなっちゃって」
「…うん」
何と答えても自惚れた言葉になりそうで、それしか言えず口をつぐんだ。
とつとつと零す彼女の愚痴に耳を傾けながら、小さな満足感を覚える自分に苦笑する。
「電話して良かったです。先輩の声が聞けて良かった」
話し終えてスッキリしたのか、美奈子の声は幾分か明るくなっていた。
「ごめんなさい。こんな愚痴、先輩にしか言えなくて」
電話の向こうで謝る彼女が目に浮かぶ。脳内での姿すら、愛おしくてたまらない。
玉緒は咳払いをひとつはさんで言った。
「良かった。僕でよければいつでも聞くよ。遠慮しないで」
「……先輩、いっつもそう」
まるで唇をとがらせているかのような、拗ねた口調だった。
「優しすぎます。……私、ダメですね、弱くて。優しい先輩を頼ってばっかりで」
「…何、言ってるの。君は頑張りすぎ。もっと頼ってほしいくらいなんだから」
「ううん。もっと頑張ります。先輩の負担にならないように、甘えすぎないように」
待って。そんなこと言わずにもっと僕を頼ってくれ。
僕なしじゃ、いられなくなるほどに。
喉まで出かかった言葉を腹の中にぎゅうぎゅうと押し戻す。
「……おやすみ、美奈子さん」
「はい。おやすみなさい、紺野先輩」
声の余韻に浸りながら、玉緒は椅子の背凭れに身体を預ける。
肺の底から大きく息を吐き出した。
自分の声を聞きたいと言って欲しくて、頼ってほしくて待ち構えているのは僕。
彼女が苦しければ苦しいほど良いと思う。
そんな独占欲は間違っているのにとめられない。
本当に弱いのは、僕のほうだ。
琥一
「小せぇ手だな」
「琥一くんが大きいんだよ。それに一応、女の子ですから」
「バカ、一応じゃねーだろ。十分女だ。おめぇはよ」
「……そういうこと今言わないでくれる? 照れるから」
「お…おぉ。そうか。悪ぃ」
「………キスして」
「キ、キス?」
「もう! するんでしょ? それともしないの? 私とするの嫌?」
「バッ! い、嫌なんか言ってねぇだろ! その、アレだ。お前はいいのかよ、俺なんかで」
「俺“なんか”じゃない。琥一くんがいいの。琥一くんとしたいの。私が好きなのは琥一くんだけなんだから」
「おっ…まえこそ、そういうことカンタンに言うんじゃねーぞ! ムチャクチャに犯すぞコラ」
「……いいよ」
「は?」
「琥一くんの、好きにしていい。覚悟決めた女は強いんだからね」
「……へぇ」
「なによ」
「やっぱイイな。お前」
「え」
「安心しろ。優しくする。途中まではな」
「途中って、あ、んっ! ちょ、み、耳は…くすぐったい…よ」
「イイんだろ。こうやって、息吹きかけっと…」
「ぅんぁっ」
「ほらな。可愛い反応しやがって。もう一回だ」
「や…っふぁっ。ふく…っこ、琥一くんのばかっ」
「上等だコラ。キスすんだから舌だせ」
「ん、ちょ待っ、って! も、ぜんぜん優しくなーいっ!」