新名


 交替の時間が来ると同時に、新名はすぐさま仕事を終えてバイト先のコンビニを出た。
 大学に入ってから一人暮らしを始めた彼女の学生マンションへとまっすぐ向かう。チャイムを鳴らしてから貰っていた合鍵でドアを開けると、テレビを見ながらストレッチをしていたらしい美奈子が振り返った。
「新名くん。お疲れさまー」
 今日来るって言ってたっけ、と呟きながら立ち上がった美奈子をそのまま抱き締めた。
「ぉあっと。びっくりした」
 たたらを踏みつつもなんとか持ちこたえた美奈子の手が、新名の背中にそっと回る。
「なんかあった?」
 柔らかな声に抱き締める力が一層籠る。そんな風に慰めないで欲しかった。零したい本音も、情けなさすぎて口に出来なくなる。
「……なぁ」
「ん?」
「俺のこと……好き?」
「え…、なに、突然」
「好き?」
 身構えて強張らせた体から力を抜くように、美奈子は息を吐き出した。
「好きだよ。新名くんが好き」
 畳み掛けるように重ねて美奈子は言った。
「大好き」
「………うん」
 なぁ。あんたの大学の先輩だっつー野郎が、今日わざわざコンビニまで来たよ。俺のこと話してんだかなんだか知らないけど、「ふーん」っつって人のこと見下しながら帰ってったよ。別にケンカ売られたわけじゃねぇし? 暴力沙汰なんかゴメンだから俺も普通に仕事戻ったけど。
 なんなの、あいつ。アンタに気があるのモロバレなんだけど。
 嫌だ。
 あんなやつがアンタの周りうろちょろしてるとか、考えただけで腸が煮えくりかえりそうだ。
「ね、新名くんは?」
 覗き込んできた瞳がまっすぐに綺麗で、胸が強く締め付けられる。
「ん、あっ、ちょ…っふ」
 アンタは俺のものだ。
 唇に貪りつきながら、新名は美奈子の服の中に手を入れた。
 好きだよ。俺もアンタが大好きだ。好きすぎて歯止めがきかなくなる。
 付き合い始める前より今のほうが不安が大きくなっていることに、新名は気付かないふりをした。

 



設楽


「ね、店入る前ウォークマンいじってたよね? どんなの聞いてるの?」
 人数合わせに、と学生時代の友達に頼みこまれた合コンで目の前の席に座った男が親しげに問いかけてきた。アイドル系かディープ系か、とにかく何かしらのとっかかりになると思っての質問だったのだろう。そしてそれはきっと、大概の女子にとっては好ましい話題なんだと思う。たが、美奈子は少し違っていた。同年代の女子が聞いているようなJ―POPは聞かないので、ごまかすための適当なアーティストすら思いつかない。
「……サントラっていうか、BGM? みたいな?」
 30点くらいの微妙な笑顔を添えながら言うと、名前すら覚えていない男はなぜかさらに身を乗り出してきた。
「へえ。美奈子ちゃん、落ち着いたの聞いてんだね。たとえばどういうの?」
「えぇと……クラシックっていうか、ピアノ?」
「ピアノ!? すげぇ、習ってたとか?」
「や、私は習ってないんですけど」
 彼氏がピアニストなんです。
 後半は言葉にならず飲み込んだ。TPOに気を遣ったのではなく、設楽をまだ彼氏と呼んでいいのか判断しかねて、心が自然にブレーキをかけていた。
「でもなんか、いい二の腕してるよね」
 ピアノと二の腕と、いったいなんの関係あるのか。要は触りたいだけだろうに。
 冷めたため息をついて、コークハイのストローを口に含んだ。
 設楽は今、いったい何をしているのだろうとぼんやり思う。おまえはボルトかと思う俊足で隣に移動してきた男に、無駄に二の腕を触られているのを知ったらどんな顔をするだろうか。
 想像して、一瞬だけ口角が上がった。ただそれが、微笑なのか失笑なのか嘲笑なのか、自分でもよくわからなかった。




琥一


 帰宅後、手洗いうがいもそこそこに琥一は首からネクタイを引き抜いた。放り投げた鞄を乗り越えて重い上着をハンガーにかける。スーツのスボンに手を突っ込んでスマートホンを取り出した。脱ぎ捨てたい衝動に駆られつつも皺になるのが嫌で、結局はスラックスも丁寧にハンガーにかけた。
 ビールのプルトップを開け、ひどく疲れた喉を潤しながら画面を操作する。冷蔵庫から肉じゃがやら大根の酢の物やらを取り出してテーブルに置き、窓際の椅子を引いてどっかと腰かけた。作った相手を電話で呼び出すと、ものの数秒で繋がった。
「お疲れさま。仕事終わったの?」
「おう。メシありがとな。けど、なんかジーサンみてぇじゃねーか?」
「そう? 肉じゃがはチンして食べてね?」
「あいよ。んで、今度の日曜どうなった?」
「あー……」
 しぼんでいく美奈子の声に、結果は聞かなくてもわかった。
「そうか……」
「ごめん……」
「仕事だ。仕方ねぇだろ」
 前回と前々回は確か自分の都合で予定はキャンセルになっていた。今回こそは会えるかと思ったが、世の中うまくいかないようにできているらしい。休みが合わずすれ違いばかりで、会えない日が続いていた。
「お前、今どこにいる?」
「いま? 取引先のエレベーターホール。打合せ終わって会社戻るとこ」
「そうか。遅くまでご苦労なこった」
「ありがと。でも今日はルーチンのところだったからそんなに疲れてないよ。琥一くんに会えたらいいのに」
 つい零れおちたというような本音だった。返事に窮してビールを飲み下すと、慌てたようにフォローが入る。
「あ、ごめん。別に会えないのを文句言ってるわけじゃないの。そもそも仕事の都合で地元から離れたの私なんだし」
「いや、謝んな」
「うん……。ごめん」
 クソ、謝んなっつっただろうが。
 謝られると、己の甲斐性の無さに情けなくなる。なんなら今からバイク転がして―。過った考えにひとり失笑した。
 左手に持っていたアルミ缶を握りつぶす。まだ少し残っていた液体が手の甲を汚した。
 どこかでメシを食うとか遊びに出るとか、そんなことはいらない。
 ただ、会いたかった。会って抱き締めたかった。
 けれど顔を見てしまうと、ふれてしまうと、それだけじゃ足りなくなることくらいわかっていた。そんな抑えが効くほど大人ではなかったし、軽い想いでもなかった。
「………会いてぇな」
 電話の向こうからは微かな呼吸が聞こえる。痛いほどだった。
 つまらないものだ、大人なんて。
 ただただ単純で純粋な、それだけの願いすら叶えられない。