高価な、いや実際の値段は知らないが、見たところ高価な櫛を挟んで私と永倉さんは向かい合っていた。
これは一体どうしたものかと、首を傾げて永倉さんを見つめる。
いきなり部屋に来たかと思うと、永倉さんは黙ってこの櫛を差し出したのだった。無言でこんな高価なもの渡そうとする彼をなんとか押しとどめて、とりあえず部屋に案内したまではいい。
だけど永倉さんは何を聞いても櫛を見つめるだけで、一向に話し出す気配は感じられなかった。
普段は胡坐をかいて座る彼が正座をして太腿の上に拳を作っているところを見ると、なにか訳があるのだろうと思う。思うけれど、それがなんなのか、私にはさっぱり見当もつかなかった。
いったいどれくらいこの膠着状態が続いてるんだろう。私は小さなため息をついた。
「あの、永倉さん?」
この呼び掛けも幾度目だろうか、全く反応がない。しかし徐々に彼の顔色が紅潮していく気がする。もしかしたら何かの病気かもしれない。
喋ることが出来ないほど口内が腫れている、とか……?
確信はないけれど、本当に病気だったら大変だ。すぐにでも診てもらったほうがいい。
もう一度声をかけて、それでも反応がなければ山南さんを呼ぼうと思って口を開いた、その時。
「これは…!これは、千鶴ちゃんに貰ってもらおうと思って…っ」
永倉さんはそう唐突に叫んだ。
「え……?私、に?」
突然話出した彼に反応しきれず鸚鵡返しをしてしまう。
「そうだ!」
豪快に頷かれるけれど私にはまだ意味がよくわからなかった。
「えー…と、こんな高価なもの頂けないです」
「何!?そりゃねえよ、千鶴ちゃん…っ。貰ってもらわねぇと捨てるしか……」
「あの、永倉さん、落ち着いてください」
「落ち、落ちっ、落ち着いてるぜっ!?俺ぁよ!」
「どうして、これを私に?」
「どうしてって、そりゃ、その、あれだ。とにかく受け取ってくれ!」
「でもこんな高価な物、なんの理由もなく受け取れないです」
「り、理由か?くそ、い、言わなきゃ駄目……か?」
「それは……はい。やっぱり教えて欲しいです」
二束三文で買える代物じゃないことくらい、質の知識が薄い私でもわかった。上物の櫛というのはとても市民が気軽に買えるものじゃないことくらいは知っていた。理由もなく貰えるはずもない。
頷くと永倉さんは唸って顔を両手で覆った。
「あー…っ!!ちくしょーっ!わかった!言う!言うぞ!!」
頭を何度かかきむしったあと、彼は大きく深呼吸して、まっすぐに私を見た。けれど、すぐに照れたように視線を横に流した。その姿が体やたらと可愛いらくて、思わずくすりと笑いそうになるのをなんとか堪える。
「俺は、俺は甲陽鎮撫隊に参加するが、千鶴ちゃんは居残り組だ」
「はい。本当は私も、行きたいんですけど……皆さんの足手纏いにはなりたくない、です」
「戦闘力から見て、確かに足手纏いなのは否定しねえ。だからその気持ちだけで十分だぜ?」
「はい……」
「あー、しょげんな。別に悪いとは言ってねえだろ。千鶴ちゃんはこっちでやるべきことをやって欲しいって思ってる」
「はい…っ」
「そんで、そんでだな、俺が言いてえのはそういうことじゃなくて……」
永倉さんは視線を逸らせたまま、「あー、あー、」と唸るような声を出した。
「だから、その、つまり、ほら、おっ、お互い、会えない日々が続くわけだ。な?」
「そう、ですね……」
胸がつきんと悲鳴をあげた。皆が戦地に向かうのを私は見送るしかできない。みんなが無事に帰ってきてくれるのを、祈るしかできない。沖田さんの苦しみが、ほんの少しだけ私にもわかるような気がした。
それに、『もし』を考えてしまうのだ。
目の前に座る彼のことは信じている。その力も。でも、だけど。
何かあれば、もう―――
「だから、よ」
永倉さんの声に、下をむいていた顔をあげた。
「食いもんとか、考えなかったわけじゃねえんだぜ?ヒガシとかそっちのが喜ぶかもしんねえって。だがそいつぁ食ったら終いじゃねえか」
ぽりぽりと永倉さんが恥ずかしそうに頬をかく。
その姿を見て、はっと思い至った。この贈り物は、つまり。
何も答えないでいると、永倉さんは痺れを切らしたように大きな声を出した。
「かーっ!!いいか、一回しか言わねーぞ!櫛なら毎日使うしなくなんねえ!会えねえけど、会えねえ間でも俺のこと思い出してくれっだろ?俺は頭悪いし金もねえからこんくらいのモンしかやれねーけどよ!ま、貰ってくれや!そんで、そんで出来れば、使ってくれっ!!!!」
一気にまくしたてた彼は肩で息をしていた。その頬は蒸気していて、耳まで赤かった。
二人の間に置かれた櫛を見つめる。そっと持ち上げると、その滑らかな感触がすぐ指になじんだ。漆黒の中に鮮やかな紅い花が描かれている。金の葉を指でなぞれば、ザラリとした砂のような感触が指の腹に伝わった。本物の金なんだろうか。
こんな高価なものを、私のために?
私は居心地悪そうに座る永倉さんに視線を戻した。
「……ずるい」
「あっ!?」
「ずるいです、永倉さん。私は毎日これで永倉さんを思い出すのに永倉さんはそうじゃないじゃないですか。私だって、私だって永倉さんに何かあげたい。毎日、思い出して欲しいのに」
「なっ!俺はなんもなくても毎日千鶴ちゃんをだなあっ!」
そう言いかけて、永倉さんは顔をそっぽに向けてしまった。その横顔はやっぱり赤い。
「永倉さん?」
「悪ぃ、俺、やっぱ、欲しいモン一個だけあるわ」
口許を手で押さえ視線だけ恥ずかしげにこちらに向けた。
「それ、くんねーかな。櫛の代わりに……とはいかねーかもしんねーけど、よ」
「私にあげられるものですか?」
「千鶴ちゃんじゃなきゃダメだ」
「それをあげたら、向こうに行っても私のこと思い出してくれますか?」
「ああ」
「私が待ってるって……忘れないでくれますか」
「たりめーだろ」
「だったら、差し上げます。それが何であろうと」
「……そっか。んじゃ、貰うぜ」
言うが早いか、永倉さんは口許を押さえていた手を私の頭へと伸ばした。そのまま強く永倉さんの胸元に引っ張られる。抵抗する間もないまま、頬に硬い胸板を押し当てられた。
「永……っ、」
思わず身を起こそうとした私をさらに強く永倉さんは抱きしめた。腰に手を回され、しっかりと抱え込まれる。そして、彼は何も言わずにひゅるりと髪を結っていた紅紐を解いた。
とくとくとくと尋常じゃないくらい速い永倉さんの鼓動の音を聞こえる。きっと私の心臓も同じくらいの速さで鼓動を刻んでいるだろう。
それでもこの沈黙がなんだか気恥ずかしくて、私は腕の隙間から彼を見上げた。
「紐でいいんですか?」
「馬鹿野郎。本体に決まってんだろ」
即答された言葉に体が熱くなる。余計なことを言わなければ良かった。
ゆっくりと彼が袴の紐を解いていくのを感じながら、私は目を瞑った。
「ぜってぇ、帰ってくっから」
次の日の朝、私の髪を例の櫛でときながら言った。
「待ってます」
永倉さんは一つ頷いて、櫛に軽く口付けて私に手渡した。
私は結うつもりで持っていた昨日の紅紐を歯で手頃な長さに千切った。それを永倉さんの手首に巻きつける。
「待ってますから」
永倉さんは、腕にまかれた紐の端を咥えて、より強く締め付けた。そして私を抱き寄せた。
「安心しろ。餞別にも形見にもしねえ」
耳元で囁かれた言葉に、私は小さくうなずくしかできなかった。
これは一体どうしたものかと、首を傾げて永倉さんを見つめる。
いきなり部屋に来たかと思うと、永倉さんは黙ってこの櫛を差し出したのだった。無言でこんな高価なもの渡そうとする彼をなんとか押しとどめて、とりあえず部屋に案内したまではいい。
だけど永倉さんは何を聞いても櫛を見つめるだけで、一向に話し出す気配は感じられなかった。
普段は胡坐をかいて座る彼が正座をして太腿の上に拳を作っているところを見ると、なにか訳があるのだろうと思う。思うけれど、それがなんなのか、私にはさっぱり見当もつかなかった。
いったいどれくらいこの膠着状態が続いてるんだろう。私は小さなため息をついた。
「あの、永倉さん?」
この呼び掛けも幾度目だろうか、全く反応がない。しかし徐々に彼の顔色が紅潮していく気がする。もしかしたら何かの病気かもしれない。
喋ることが出来ないほど口内が腫れている、とか……?
確信はないけれど、本当に病気だったら大変だ。すぐにでも診てもらったほうがいい。
もう一度声をかけて、それでも反応がなければ山南さんを呼ぼうと思って口を開いた、その時。
「これは…!これは、千鶴ちゃんに貰ってもらおうと思って…っ」
永倉さんはそう唐突に叫んだ。
「え……?私、に?」
突然話出した彼に反応しきれず鸚鵡返しをしてしまう。
「そうだ!」
豪快に頷かれるけれど私にはまだ意味がよくわからなかった。
「えー…と、こんな高価なもの頂けないです」
「何!?そりゃねえよ、千鶴ちゃん…っ。貰ってもらわねぇと捨てるしか……」
「あの、永倉さん、落ち着いてください」
「落ち、落ちっ、落ち着いてるぜっ!?俺ぁよ!」
「どうして、これを私に?」
「どうしてって、そりゃ、その、あれだ。とにかく受け取ってくれ!」
「でもこんな高価な物、なんの理由もなく受け取れないです」
「り、理由か?くそ、い、言わなきゃ駄目……か?」
「それは……はい。やっぱり教えて欲しいです」
二束三文で買える代物じゃないことくらい、質の知識が薄い私でもわかった。上物の櫛というのはとても市民が気軽に買えるものじゃないことくらいは知っていた。理由もなく貰えるはずもない。
頷くと永倉さんは唸って顔を両手で覆った。
「あー…っ!!ちくしょーっ!わかった!言う!言うぞ!!」
頭を何度かかきむしったあと、彼は大きく深呼吸して、まっすぐに私を見た。けれど、すぐに照れたように視線を横に流した。その姿が体やたらと可愛いらくて、思わずくすりと笑いそうになるのをなんとか堪える。
「俺は、俺は甲陽鎮撫隊に参加するが、千鶴ちゃんは居残り組だ」
「はい。本当は私も、行きたいんですけど……皆さんの足手纏いにはなりたくない、です」
「戦闘力から見て、確かに足手纏いなのは否定しねえ。だからその気持ちだけで十分だぜ?」
「はい……」
「あー、しょげんな。別に悪いとは言ってねえだろ。千鶴ちゃんはこっちでやるべきことをやって欲しいって思ってる」
「はい…っ」
「そんで、そんでだな、俺が言いてえのはそういうことじゃなくて……」
永倉さんは視線を逸らせたまま、「あー、あー、」と唸るような声を出した。
「だから、その、つまり、ほら、おっ、お互い、会えない日々が続くわけだ。な?」
「そう、ですね……」
胸がつきんと悲鳴をあげた。皆が戦地に向かうのを私は見送るしかできない。みんなが無事に帰ってきてくれるのを、祈るしかできない。沖田さんの苦しみが、ほんの少しだけ私にもわかるような気がした。
それに、『もし』を考えてしまうのだ。
目の前に座る彼のことは信じている。その力も。でも、だけど。
何かあれば、もう―――
「だから、よ」
永倉さんの声に、下をむいていた顔をあげた。
「食いもんとか、考えなかったわけじゃねえんだぜ?ヒガシとかそっちのが喜ぶかもしんねえって。だがそいつぁ食ったら終いじゃねえか」
ぽりぽりと永倉さんが恥ずかしそうに頬をかく。
その姿を見て、はっと思い至った。この贈り物は、つまり。
何も答えないでいると、永倉さんは痺れを切らしたように大きな声を出した。
「かーっ!!いいか、一回しか言わねーぞ!櫛なら毎日使うしなくなんねえ!会えねえけど、会えねえ間でも俺のこと思い出してくれっだろ?俺は頭悪いし金もねえからこんくらいのモンしかやれねーけどよ!ま、貰ってくれや!そんで、そんで出来れば、使ってくれっ!!!!」
一気にまくしたてた彼は肩で息をしていた。その頬は蒸気していて、耳まで赤かった。
二人の間に置かれた櫛を見つめる。そっと持ち上げると、その滑らかな感触がすぐ指になじんだ。漆黒の中に鮮やかな紅い花が描かれている。金の葉を指でなぞれば、ザラリとした砂のような感触が指の腹に伝わった。本物の金なんだろうか。
こんな高価なものを、私のために?
私は居心地悪そうに座る永倉さんに視線を戻した。
「……ずるい」
「あっ!?」
「ずるいです、永倉さん。私は毎日これで永倉さんを思い出すのに永倉さんはそうじゃないじゃないですか。私だって、私だって永倉さんに何かあげたい。毎日、思い出して欲しいのに」
「なっ!俺はなんもなくても毎日千鶴ちゃんをだなあっ!」
そう言いかけて、永倉さんは顔をそっぽに向けてしまった。その横顔はやっぱり赤い。
「永倉さん?」
「悪ぃ、俺、やっぱ、欲しいモン一個だけあるわ」
口許を手で押さえ視線だけ恥ずかしげにこちらに向けた。
「それ、くんねーかな。櫛の代わりに……とはいかねーかもしんねーけど、よ」
「私にあげられるものですか?」
「千鶴ちゃんじゃなきゃダメだ」
「それをあげたら、向こうに行っても私のこと思い出してくれますか?」
「ああ」
「私が待ってるって……忘れないでくれますか」
「たりめーだろ」
「だったら、差し上げます。それが何であろうと」
「……そっか。んじゃ、貰うぜ」
言うが早いか、永倉さんは口許を押さえていた手を私の頭へと伸ばした。そのまま強く永倉さんの胸元に引っ張られる。抵抗する間もないまま、頬に硬い胸板を押し当てられた。
「永……っ、」
思わず身を起こそうとした私をさらに強く永倉さんは抱きしめた。腰に手を回され、しっかりと抱え込まれる。そして、彼は何も言わずにひゅるりと髪を結っていた紅紐を解いた。
とくとくとくと尋常じゃないくらい速い永倉さんの鼓動の音を聞こえる。きっと私の心臓も同じくらいの速さで鼓動を刻んでいるだろう。
それでもこの沈黙がなんだか気恥ずかしくて、私は腕の隙間から彼を見上げた。
「紐でいいんですか?」
「馬鹿野郎。本体に決まってんだろ」
即答された言葉に体が熱くなる。余計なことを言わなければ良かった。
ゆっくりと彼が袴の紐を解いていくのを感じながら、私は目を瞑った。
「ぜってぇ、帰ってくっから」
次の日の朝、私の髪を例の櫛でときながら言った。
「待ってます」
永倉さんは一つ頷いて、櫛に軽く口付けて私に手渡した。
私は結うつもりで持っていた昨日の紅紐を歯で手頃な長さに千切った。それを永倉さんの手首に巻きつける。
「待ってますから」
永倉さんは、腕にまかれた紐の端を咥えて、より強く締め付けた。そして私を抱き寄せた。
「安心しろ。餞別にも形見にもしねえ」
耳元で囁かれた言葉に、私は小さくうなずくしかできなかった。
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