眉間に皺を寄せた土方さんが、重苦しいため息とともに朝食の席へと戻って来た。
手には今し方受け取ったのであろう書状が握り締められている。
「お前ら、一旦箸おけ」
土方さんが静かにそう言うと、朝から元気に争っていた平助くんと永倉さんでさえ、瞬時に表情を切り替えて背筋を伸ばした。私も慌ててそれにならい、居住いを正す。
まるで誰もいないのかと錯覚するほど、部屋は静かになった。ただ、土方さんの次の言葉を待つ異様な熱気が部屋中を包んでいた。私たちの視線を一身に受け止めた土方さんは、ひとつ頷いてから書状に目を落とした。
「いいな、お前らよく聞け。会津公からたった今任務を仰せつかった。大阪に来ているある役人を江戸まで無事送り届けよ、とのことだ」
書状をひらひらと振りながら土方さんが続ける。
「その役人ってのがどうもお偉いさんらしくてな。そこで、近藤局長」
「うむ」
「あんたに是非護衛を頼みたいそうだ」
「あいわかった!この俺の命に換えてでもその御仁を守り通そうではないか!」
近藤さんが鼻息荒く頷くのとは対照的に、土方さんは眉間に皺を寄せた。
「確かにこれは大役だ。ようやく幕府のお偉い方も俺たちの力を信じる気になったらしいな。意気込むのはいい。だが近藤さん、命に換えてもらっちゃ困るんだよ。新選組の総大将はあんたしかいねぇんだ」
「む………だが、しかし」
「そこでだ!」
言い募ろうとした近藤さんを押し退けるように土方さんが大声を出す。
「幹部の何人かに近藤さんの護衛を勤めてもらう」
その一言で、水を打ったように静かだった部屋に小規模な爆発でも怒ったかのような雄叫びが響いた。自信ありげな言葉が飛び交う。沖田さんもその一人だ。
「なるほどね。安心して下さいよ土方さん。近藤さんのことは僕が死んでも必ず守りますから」
もちろん僕は死んだりしませんけど、と余裕の笑みだ。
けれど土方さんの声は冷たかった。
「馬鹿野郎。病人なんざ連れてけるわけねぇだろうが。お前は屯所待機に決まってんだよ」
「は!?何、土方さん、もしかして、こんな時に留守番してろって言ってる?」
「総司。トシの言うとおりだぞ」
噛み付かんばかりの剣幕になった沖田さんを近藤さんは一言で宥めた。
沖田さんはまだ不満そうな表情ながらも黙り込む。
近藤さんの一言は、やはり彼にとっても重い。それに、もしかすると『自分が病人であること』を一番感じているのは沖田さん自身に違いないことも関係しているかもしれない。キリ、と唇を噛んだ彼の横顔から、私はそっと視線を外した。
「……続けるぞ。斎藤、原田、平助、それから、源さん。あんたらに近藤さんの護衛を頼みたい」
「御意」
「ああ」
「よっしゃぁ!任せとけって!」
「わかったよ」
頷いてみせた4人が座る場所とは違う方向から、非難の声が上がった。
「ちょっと待てよ!!そりゃねぇぜ土方さん!総司はともかくこの俺にも留守番してろってのか!!」
永倉さんだ。
「やだな新八さん。その言い方だと僕が役に立たないから留守番させられてるみたいじゃないですか」
「そ、そうは言ってねーけど、俺はお前と違ってピンピンしてんだぜ!?納得いかねーだろ!」
「そうですね。僕もやっぱり納得いかないな。こんな風邪くらい別にどうってことないんですし」
睨みつけるような二人の視線を受けて、土方さんは指でこめかみを抑えた。
「あのな、お前ら。今回お前らを残すのは別にお前らが役に立つとか立たねーとか、腕を認めてねぇとかそんな話じゃねえんだよ。むしろ、護衛よりよっぽどこっちに残される仕事のほうが腕もいるだろう。それを総司と新八にはしてもらいてーんだ」
「羅刹隊の監視……ですね?」
斎藤さんがぽつりとつぶやいた。土方さんがそれに小さくうなずいて応じる。
「………そうだ。あと鬼どももな」
「そんなの、鬼の副長ひとりいれば十分なんじゃないですか」
沖田さんの呟きに、それはできねぇ相談だ、と土方さんは首を振った。
「先方からの指名でな。俺も江戸まで行く」
「はあ!?局長と副長の二人も抜けるのかよ!それじゃここは――」
大声を出した永倉さんを土方さんは睨みつけた。
「だから一、二番の頭を置いてくんだろうが!!!」
脳みそ腐ってんのか、とでも言わんばかりの勢いだ。
もしかしたら彼としても屯所を空けたくはないのかもしれない。
「よっぽど戦力を割きたいのか局長だけじゃ足んねぇとでも言いてえのか………相手の意向はわからねぇが俺たちゃ従うしかねぇんだよ」
土方さんが、睨みあげてくる彼らに視線を合わせた。
「お前ら二人なら十分に対応出来るだろ。総司は酒呑めねぇし新八は知識に疎いわけじゃねぇ。 俺と近藤さん、他の幹部も抜ける必要があるこの状況では、一、二番の頭取置いてくのが最善の策なんだ。………分かってくれるな」
有無を言わせぬ響きながらも、二人に対して多大なる信頼をおいていることがわかるような言い方だった。
そんな土方さんの態度に、沖田さんは困ったように笑い、永倉さんは照れたように頭をかく。
「その…取り乱して、悪かったな」
「そんなこと言われたらお酒呑みたくなっちゃうじゃないですか」
言い方こそ違うものの、居残りに納得したらしい二人に頷いて、土方さんは私に向き直った。
「千鶴。悪いがお前も屯所待機だ」
「はい」
「出かけ先は江戸だ。時間はあまりとれねーだろうが、ついでに綱道さんのことも情報集めてくる」
「あっ…ありがとうございます……!」
思わぬ彼の言葉に私は深々と頭を下げた。彼は気にすんな、と一言だけ言い、沖田さんと永倉さんに視線を戻した。
「山南さんを………頼んだぞ」
二人が無言で頷いたのを確認してから、
「名前を呼ばれた奴はすぐに準備しろ。お偉いさんは待たせるとうるせーからな」
と部屋を見渡した。すれ違いざま、土方さんは永倉さんにだけ早口で喋りかけた。
「悪いな、新八。総司を止めれるのはうちじゃ斎藤かお前ぐらいしか居ねぇ」
「……わぁってますよ。任せてください」
土方さんが小さく頷いて足早に広間を出て行った。永倉さんは何もなかったかのように、平助くんの肩に拳を突きつけて激を飛ばしていた。
そんなやりとりがあったのは、もう四十日近くも前のことだったりする。
土手にごろりと寝そべって突き抜けるように青い空を眺めた。
皆、無事なのかな………
もうとっくに帰ってきても良い頃なのになんの連絡もない。便りがないのは元気な証拠。そんな諺もあるけれど無事なら無事と便りを出して欲しいものだ。
不安定な気持ちになるごと、私はこの土手に来ていた。不安なのはみんな一緒だからだ。こんななかで「皆様無事でしょうか」なんて言おうものなら沖田さんにバッサリ切られてしまうかもしれない。そんなこと、誰にもわからないのだから。
けれど近くに誰かが居るとつい言葉が緩んで出てきてしまいそうで。
私は一人ここに来て、ひっそりと思う存分落ち込んでいた。
ぼんやりと空を眺めて時間をつぶしていると、時期に空は赤くなる。
今日もみんな帰ってこなかったな、そろそろ洗濯物入れなくちゃ、なんてとりとめのないことを考えつつも、体を起こす気には一向になれなかった。
胸の裏を焦がすような不安が、まだくすぶっているせいかもしれない。
沈んでいく太陽をぼんやりと眺めていると、にゅっと上から誰かが覗き込んできた。
「おい、んなとこで寝てっと追剥ぎに遭うぞ」
「永倉さん……」
逆光で彼の表情はうまく見れなかったけれど、きっと笑っているのだろう。私も笑い返した。
「大丈夫です。お金なんて持ってませんから」
「じゃあ売られちまうぞ。美少年ってのは高くつくらしいからな」
お前身なりはオトコなんだから気をつけろよ、なんて嘘か本気かわからないことを言いつつ、 永倉さんは私の隣に腰掛けた。
このままでは失礼だから起き上がろうとしたけど、目が『そのままでいいぞ』といってくれていたのでそれに甘える。
「売られるのって女の子だけじゃないんですか?」
「最近じゃオトコも売れるんだとよ。ってか千鶴ちゃんは女なんだからもっと高値がつくか」
がはは、と一通り笑ったあと、永倉さんは目を細めて呟いた。
「屯所、帰らねぇのか?」
「……もうすこししたら、帰ります。今は、まだ………」
「まだ?」
「帰りたく、ないんです」
正直に打ち明ければ、
「そうか」
永倉さんはバタンと背中を倒して私の隣に寝そべった。大きなあくびをしながら腕を伸ばす。
「あーあぁ。あったけーな。ここ。眠くなっちまった」
「な、永倉さん?」
「弱音は、聞けねぇ」
独り言のように呟かれた言葉に私は少し沈んだ。この暗い気持ちは言葉にしたら少しは楽になると知っているから。
それを聞きたくないというのなら、せめて一人にして欲しかった。
「だが、愚痴なら聞いてやるぜ」
「………え?」
「千鶴ちゃん一人ここに残して帰れねぇし、それじゃ第一なんのために来たのかわかんねぇだろ?千鶴ちゃん、日に日にここに居る時間長くなってんだぞ?気づいてたか?」
ぐる、と永倉さんはこちらに顔を向けた。
……もしかして、永倉さんは偶然ここを通りかかったのではないのだろうか?
さっきの言い方だとそんな感じだ。しかも『日に日に』ってどういうことだろう?必死に頭を動かしてると、答えを待てなくなったのか、永倉さんが私の頭に手を伸ばした。
「え…………?」
無骨で、骨ばった手が、ぎこちなく頭から頬へと往復した。
慰めるようなその手つきで、永倉さんが私の居場所を知っていたのは何故なのかがわかった気がした。
少なくとも『監視』のためではない。
だってもしそうなら、きっとこんな優しい目をして私をあやしたりなんかしない。声をかけてくれたりなんかしない。
皆の状況は不透明でわからないから、「アイツらは大丈夫だ」とは、永倉さんは言わなかった。けれど、何度も何度も私を慰める手が、言葉よりも雄弁にそう語っていた。彼にはきっと余裕があるんだ。そしてその余裕は、皆ををとても信頼しているから生まれてくるんだろう。
ひとりで居るとこらえられていたものが、誰かと居ることでゆるくなってしまう。
涙も、そのうちのひとつだと思う。
永倉さんの手に、私はほだされてしまった。
「お、おい、聞くのは愚痴だっつったじゃねぇか!」
じんわりと私の目ににじんできた涙に焦ったのか、永倉さんは起き上がって、私の顔を覗き込んだ。
「泣くなよ!なっ?ほら、美人が台無しじゃねーか!」
慌てた声にぐっと唇を結ぶけれど、ぽろぽろと零れ落ちる不安の結晶は止まらない。
「おい、ああ…、なぁ、俺ぁどうすりゃいい!?」
「〜〜〜〜〜っ、」
永倉さんを困らせたいわけじゃないから、私は涙をぬぐおうと両手で目をこすった。その手を永倉さんがたった片手で押さえつけてしまう。
「あーあー、こするな、赤くなんだろ、」
「で、も…っ」
「ぁー…っ!ど、どうすりゃいいんだよ!」
「ご、めんなさ、」
「違っ……!あー!!わかったよ、ほら、もういいからよ、泣け!な?」
顔を背けて永倉さんは大声でそういった。普通は泣くなっていうのに。
永倉さんの優しさに気付いた瞬間、私は声をあげて、びぃびぃと子供のように泣いてしまっていた。
迷子が父親をやっと見つけたかのように、永倉さんにしがみく。
「あ、あぁー、どうすりゃいいんだよ、ちくしょ、」
腕を首に巻きつけて、顔を胸に押し当てて。そんなふうにして泣く私の頭上で永倉さんはうめき声をあけていた。
けれど、少ししてから、またぎこちなく私の頭を彼の手が往復しはじめた。ぽんぽんと背中まで叩かれて、まるで「よしよし、」なんていわれているみたいだ。
「よ、よしよし」
………本当に言われてしまった。
それがおかしくて、私は泣き声にくすりと苦笑を交えた。
「あ、千鶴ちゃん今笑っただろ!」
ひでぇじゃねぇか!なんて言う永倉さんがおかしくて、今度は苦笑じゃすまなくなってしまう。
「あ、あは、あはは!」
「おい、千鶴ちゃん!頼む!泣くか笑うかどっちかにしてくれっ」
「あは、は!っ、ふ、ふふふ!!」
彼の出した情けない声にくすくす笑いが止まらない。
涙は、いつの間にか止まってしまった。
「ふ、はは、!ははは!!!」
私が笑い出したことにほっとしたのか、永倉さんも声をあげて笑い出した。それを聞いて、なんだかうれしくて私もまた声を大きくする。意味もない笑いが二人を包み込んだ。こんなに笑うのは一体何日ぶりだったろう?
「……ふぅ」
笑い疲れて、ため息をついた。目の端に残る涙を指で弾き飛ばす。
「もう大丈夫だな」
ぽん、と私の頭に手を乗せて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜながら永倉さんは言った。
「はい……。ありがとうございます」
みんながどうなっているのか、全くわからない状況は変わりない。それなのに心のつかえがほとんど消えてしまったような気がした。永倉さんのおかげだ。
下げた頭をあげ、永倉さんにゆっくりとほほ笑みかける。
と、永倉さんは、驚いたように目を張り、バタンと後ろに倒れた。
「え!?永倉さん!?」
覗き込もうとすると、彼は自分の腕で顔を覆った。まるで抱きしめるかのように。
「ど、どうしたんですか?」
「………ヤラレタ」
「はい?」
「やっぱ、その、あれだ。び、美人は笑っとけ!ってな!?」
「…えぇと……?」
話のつながりがわからなくて、首を傾げていると、永倉さんはあーあーとまた呟いた。
腕を解いて、頭の後ろに指を組む。隠されていた永倉さんの顔は夕日に照らされて、真っ赤に染まっていた。
「………あいつら、このままずっと帰ってこねぇといいなー。そう思わねーか?」
「ええ!?何いってるんですか!?」
「じょ、冗談だよ、冗談!」
「で、ですよね。もう、びっくりさせないでください」
「悪ぃ。だけどよ……、その、まぁ、もし―――」
空を見つめて、永倉さんは何かを言おうとした。
その瞬間、
「あーっ!!!二人ともこんなとこいたし!おーい!帰ってきたぞーっ!」
「げ!どうしたんだ千鶴!えらい髪が乱れてんじゃねーか!」
「新八さん、もしかして彼女にやらしいことしてたんじゃないですか?」
懐かしい声が土手の上から降ってきた。
「平助くん!原田さん!!良かった……っ!ご無事だったんですね!!!」
久しぶりに見る2人の姿に私は思わず手を叩いた。
「無事に決まってんじゃん!」
「土産あるぞ、千鶴」
「わあ!ありがとうございます……!」
「へっへー!俺と左之さんで選んだんだぜ?上がって来いよ!」
「おい、新八、何ぼさっと寝転がってんだよ?ちゃんと酒、買ってきてやったぞ」
叫んだ原田さんに永倉さんはうめき声をあげた。
「うぁーーー!ちくしょう!なんだってんだ!!」
寝転がっていた体勢から勢いよく起きあがると同時に、永倉さんはズンズンと土手を上っていってしまった。一歩一歩力強く踏みしめているかのようだ。
さっきは帰ってこなくていい、なんて言っていたけれどやっぱり本当はとても嬉しいんだろう。土手を上っていく後姿から、怒ったような口調とは裏腹にどこか楽しげなのが伝わってきた。
でも、さっきの言葉は何を言いかけたのだろう?続きが聞けなかったのは少し残念だ。『もし』なんだったのか、知りたいような気がした。
「千鶴ー!どうかしたか?早く上って来いよー!」
「あ、う、うん!いまいく!」
平助くんの声に私は顔をあげた。
おかしいな。何、期待してるんだろう、私。今は彼らの帰還を祝うことのほうが先なのに。
でも、さっきの永倉さんの手の感じが忘れられない。
私は頭を振ってその温もりの残像を振り払った。立ち上がろうと足に力をこめる。
と、目の前に手が差出された。
先に行っていたはずの永倉さんがそこにいた。なんだか不機嫌そうに視線をさまよわせている。
「ほら、つ、掴まんな」
「あ、ありがとうございます」
伸ばされた手にそっと自分の手を乗せる。さっき私を慰めてくれていた、暖かな手。
そう思うと、何故か心臓が変な方向に跳ねた。ドキン、ドキンとやたら大きく鼓動を刻む。
なんだか、顔が熱い。
「うし、行くぞ?」
「は、はい…っ」
変に裏返った声に頬が熱くなった。一体どうしちゃったんだろう、私。
軽く引っ張られた瞬間、体が浮いたような感じになった。改めて、自分と彼の差を認識する。彼の手は大きくて、骨ばっていて、なんだか硬くて、私のとは全然違っていて。
って、ああもう、どうしてこんなこと考えてるんだろう、私…!
不意にきゅっと握られていた手に力がこもった。俯いていた顔をあげて、前を行く永倉さんの後ろ姿を見た。
耳が赤く見えるのは気のせいだろうか。
「ち、千鶴ちゃん、その、良かったら今度………」
「あーーっっ!!!ちょっと新八っつぁん、汚ねぇ手で千鶴に触んなよなっ!」
続きの言葉は、またしても平助くんによって阻まれてしまった。
「あぁ!?あっ!こ、これはだな、別に他意は―――!」
焦ったように永倉さんが手を離そうとしたから、反射的になぜか私は強く握り締めた。
「ち、千鶴ちゃ……?」
「離せって!!新八っつぁん!」
「い、いや、俺ぁ、」
「もう、ちょっとだけ、いいですか?」
小声で、永倉さんにだけ聞こえるように呟いた。
「千鶴ちゃん……?」
「上りきるまででいいんです。あの、永倉さんの手、なんていうか、すごく安心するから、だから……」
「そ、そうか……?べ、べべべ別に、俺はかまわねーよ、ぜんぜん!」
彼は目を白黒させていた永倉さんは、かろうじでうなずいてくれた。
「ありがとうございます」
「いや、こんなもん……、その、それよか」
「あーっ!もう!!いつまでそこで突っ立てんだよ!今からそっち行くかんな!」
二度あることは三度ある、だ。永倉さんの声と、平助くんの声がかぶって、やっぱり永倉さんが何を言おうとしたのかはわからなかった。
ただ、わかったのは。
「おい、総司。俺たちが居ねぇ間になにがあったんだ?」
「僕も知りませんよ」
「ったく何で二人して突っ立ってんだよ、ほら行こうぜ」
「へ、平助くん」
平助くんが、空いていた私のもう片方の手をとって引っ張った。
「あ!平助てめぇ何一人で抜け駆けしようとしてんだよ!」
「へーんだ!左之さんは総司とでもつないどけばー?」
平助くんの手も、私の手と違って骨ばっていた。けれど……。
私はこっそり広くて大きな背中を見つめた。
ときんときんと胸が鳴る。
この切ないような、湧き出るような気持ちをもたらしてくれるのは永倉さんの手だけなんだろう。
手には今し方受け取ったのであろう書状が握り締められている。
「お前ら、一旦箸おけ」
土方さんが静かにそう言うと、朝から元気に争っていた平助くんと永倉さんでさえ、瞬時に表情を切り替えて背筋を伸ばした。私も慌ててそれにならい、居住いを正す。
まるで誰もいないのかと錯覚するほど、部屋は静かになった。ただ、土方さんの次の言葉を待つ異様な熱気が部屋中を包んでいた。私たちの視線を一身に受け止めた土方さんは、ひとつ頷いてから書状に目を落とした。
「いいな、お前らよく聞け。会津公からたった今任務を仰せつかった。大阪に来ているある役人を江戸まで無事送り届けよ、とのことだ」
書状をひらひらと振りながら土方さんが続ける。
「その役人ってのがどうもお偉いさんらしくてな。そこで、近藤局長」
「うむ」
「あんたに是非護衛を頼みたいそうだ」
「あいわかった!この俺の命に換えてでもその御仁を守り通そうではないか!」
近藤さんが鼻息荒く頷くのとは対照的に、土方さんは眉間に皺を寄せた。
「確かにこれは大役だ。ようやく幕府のお偉い方も俺たちの力を信じる気になったらしいな。意気込むのはいい。だが近藤さん、命に換えてもらっちゃ困るんだよ。新選組の総大将はあんたしかいねぇんだ」
「む………だが、しかし」
「そこでだ!」
言い募ろうとした近藤さんを押し退けるように土方さんが大声を出す。
「幹部の何人かに近藤さんの護衛を勤めてもらう」
その一言で、水を打ったように静かだった部屋に小規模な爆発でも怒ったかのような雄叫びが響いた。自信ありげな言葉が飛び交う。沖田さんもその一人だ。
「なるほどね。安心して下さいよ土方さん。近藤さんのことは僕が死んでも必ず守りますから」
もちろん僕は死んだりしませんけど、と余裕の笑みだ。
けれど土方さんの声は冷たかった。
「馬鹿野郎。病人なんざ連れてけるわけねぇだろうが。お前は屯所待機に決まってんだよ」
「は!?何、土方さん、もしかして、こんな時に留守番してろって言ってる?」
「総司。トシの言うとおりだぞ」
噛み付かんばかりの剣幕になった沖田さんを近藤さんは一言で宥めた。
沖田さんはまだ不満そうな表情ながらも黙り込む。
近藤さんの一言は、やはり彼にとっても重い。それに、もしかすると『自分が病人であること』を一番感じているのは沖田さん自身に違いないことも関係しているかもしれない。キリ、と唇を噛んだ彼の横顔から、私はそっと視線を外した。
「……続けるぞ。斎藤、原田、平助、それから、源さん。あんたらに近藤さんの護衛を頼みたい」
「御意」
「ああ」
「よっしゃぁ!任せとけって!」
「わかったよ」
頷いてみせた4人が座る場所とは違う方向から、非難の声が上がった。
「ちょっと待てよ!!そりゃねぇぜ土方さん!総司はともかくこの俺にも留守番してろってのか!!」
永倉さんだ。
「やだな新八さん。その言い方だと僕が役に立たないから留守番させられてるみたいじゃないですか」
「そ、そうは言ってねーけど、俺はお前と違ってピンピンしてんだぜ!?納得いかねーだろ!」
「そうですね。僕もやっぱり納得いかないな。こんな風邪くらい別にどうってことないんですし」
睨みつけるような二人の視線を受けて、土方さんは指でこめかみを抑えた。
「あのな、お前ら。今回お前らを残すのは別にお前らが役に立つとか立たねーとか、腕を認めてねぇとかそんな話じゃねえんだよ。むしろ、護衛よりよっぽどこっちに残される仕事のほうが腕もいるだろう。それを総司と新八にはしてもらいてーんだ」
「羅刹隊の監視……ですね?」
斎藤さんがぽつりとつぶやいた。土方さんがそれに小さくうなずいて応じる。
「………そうだ。あと鬼どももな」
「そんなの、鬼の副長ひとりいれば十分なんじゃないですか」
沖田さんの呟きに、それはできねぇ相談だ、と土方さんは首を振った。
「先方からの指名でな。俺も江戸まで行く」
「はあ!?局長と副長の二人も抜けるのかよ!それじゃここは――」
大声を出した永倉さんを土方さんは睨みつけた。
「だから一、二番の頭を置いてくんだろうが!!!」
脳みそ腐ってんのか、とでも言わんばかりの勢いだ。
もしかしたら彼としても屯所を空けたくはないのかもしれない。
「よっぽど戦力を割きたいのか局長だけじゃ足んねぇとでも言いてえのか………相手の意向はわからねぇが俺たちゃ従うしかねぇんだよ」
土方さんが、睨みあげてくる彼らに視線を合わせた。
「お前ら二人なら十分に対応出来るだろ。総司は酒呑めねぇし新八は知識に疎いわけじゃねぇ。 俺と近藤さん、他の幹部も抜ける必要があるこの状況では、一、二番の頭取置いてくのが最善の策なんだ。………分かってくれるな」
有無を言わせぬ響きながらも、二人に対して多大なる信頼をおいていることがわかるような言い方だった。
そんな土方さんの態度に、沖田さんは困ったように笑い、永倉さんは照れたように頭をかく。
「その…取り乱して、悪かったな」
「そんなこと言われたらお酒呑みたくなっちゃうじゃないですか」
言い方こそ違うものの、居残りに納得したらしい二人に頷いて、土方さんは私に向き直った。
「千鶴。悪いがお前も屯所待機だ」
「はい」
「出かけ先は江戸だ。時間はあまりとれねーだろうが、ついでに綱道さんのことも情報集めてくる」
「あっ…ありがとうございます……!」
思わぬ彼の言葉に私は深々と頭を下げた。彼は気にすんな、と一言だけ言い、沖田さんと永倉さんに視線を戻した。
「山南さんを………頼んだぞ」
二人が無言で頷いたのを確認してから、
「名前を呼ばれた奴はすぐに準備しろ。お偉いさんは待たせるとうるせーからな」
と部屋を見渡した。すれ違いざま、土方さんは永倉さんにだけ早口で喋りかけた。
「悪いな、新八。総司を止めれるのはうちじゃ斎藤かお前ぐらいしか居ねぇ」
「……わぁってますよ。任せてください」
土方さんが小さく頷いて足早に広間を出て行った。永倉さんは何もなかったかのように、平助くんの肩に拳を突きつけて激を飛ばしていた。
そんなやりとりがあったのは、もう四十日近くも前のことだったりする。
土手にごろりと寝そべって突き抜けるように青い空を眺めた。
皆、無事なのかな………
もうとっくに帰ってきても良い頃なのになんの連絡もない。便りがないのは元気な証拠。そんな諺もあるけれど無事なら無事と便りを出して欲しいものだ。
不安定な気持ちになるごと、私はこの土手に来ていた。不安なのはみんな一緒だからだ。こんななかで「皆様無事でしょうか」なんて言おうものなら沖田さんにバッサリ切られてしまうかもしれない。そんなこと、誰にもわからないのだから。
けれど近くに誰かが居るとつい言葉が緩んで出てきてしまいそうで。
私は一人ここに来て、ひっそりと思う存分落ち込んでいた。
ぼんやりと空を眺めて時間をつぶしていると、時期に空は赤くなる。
今日もみんな帰ってこなかったな、そろそろ洗濯物入れなくちゃ、なんてとりとめのないことを考えつつも、体を起こす気には一向になれなかった。
胸の裏を焦がすような不安が、まだくすぶっているせいかもしれない。
沈んでいく太陽をぼんやりと眺めていると、にゅっと上から誰かが覗き込んできた。
「おい、んなとこで寝てっと追剥ぎに遭うぞ」
「永倉さん……」
逆光で彼の表情はうまく見れなかったけれど、きっと笑っているのだろう。私も笑い返した。
「大丈夫です。お金なんて持ってませんから」
「じゃあ売られちまうぞ。美少年ってのは高くつくらしいからな」
お前身なりはオトコなんだから気をつけろよ、なんて嘘か本気かわからないことを言いつつ、 永倉さんは私の隣に腰掛けた。
このままでは失礼だから起き上がろうとしたけど、目が『そのままでいいぞ』といってくれていたのでそれに甘える。
「売られるのって女の子だけじゃないんですか?」
「最近じゃオトコも売れるんだとよ。ってか千鶴ちゃんは女なんだからもっと高値がつくか」
がはは、と一通り笑ったあと、永倉さんは目を細めて呟いた。
「屯所、帰らねぇのか?」
「……もうすこししたら、帰ります。今は、まだ………」
「まだ?」
「帰りたく、ないんです」
正直に打ち明ければ、
「そうか」
永倉さんはバタンと背中を倒して私の隣に寝そべった。大きなあくびをしながら腕を伸ばす。
「あーあぁ。あったけーな。ここ。眠くなっちまった」
「な、永倉さん?」
「弱音は、聞けねぇ」
独り言のように呟かれた言葉に私は少し沈んだ。この暗い気持ちは言葉にしたら少しは楽になると知っているから。
それを聞きたくないというのなら、せめて一人にして欲しかった。
「だが、愚痴なら聞いてやるぜ」
「………え?」
「千鶴ちゃん一人ここに残して帰れねぇし、それじゃ第一なんのために来たのかわかんねぇだろ?千鶴ちゃん、日に日にここに居る時間長くなってんだぞ?気づいてたか?」
ぐる、と永倉さんはこちらに顔を向けた。
……もしかして、永倉さんは偶然ここを通りかかったのではないのだろうか?
さっきの言い方だとそんな感じだ。しかも『日に日に』ってどういうことだろう?必死に頭を動かしてると、答えを待てなくなったのか、永倉さんが私の頭に手を伸ばした。
「え…………?」
無骨で、骨ばった手が、ぎこちなく頭から頬へと往復した。
慰めるようなその手つきで、永倉さんが私の居場所を知っていたのは何故なのかがわかった気がした。
少なくとも『監視』のためではない。
だってもしそうなら、きっとこんな優しい目をして私をあやしたりなんかしない。声をかけてくれたりなんかしない。
皆の状況は不透明でわからないから、「アイツらは大丈夫だ」とは、永倉さんは言わなかった。けれど、何度も何度も私を慰める手が、言葉よりも雄弁にそう語っていた。彼にはきっと余裕があるんだ。そしてその余裕は、皆ををとても信頼しているから生まれてくるんだろう。
ひとりで居るとこらえられていたものが、誰かと居ることでゆるくなってしまう。
涙も、そのうちのひとつだと思う。
永倉さんの手に、私はほだされてしまった。
「お、おい、聞くのは愚痴だっつったじゃねぇか!」
じんわりと私の目ににじんできた涙に焦ったのか、永倉さんは起き上がって、私の顔を覗き込んだ。
「泣くなよ!なっ?ほら、美人が台無しじゃねーか!」
慌てた声にぐっと唇を結ぶけれど、ぽろぽろと零れ落ちる不安の結晶は止まらない。
「おい、ああ…、なぁ、俺ぁどうすりゃいい!?」
「〜〜〜〜〜っ、」
永倉さんを困らせたいわけじゃないから、私は涙をぬぐおうと両手で目をこすった。その手を永倉さんがたった片手で押さえつけてしまう。
「あーあー、こするな、赤くなんだろ、」
「で、も…っ」
「ぁー…っ!ど、どうすりゃいいんだよ!」
「ご、めんなさ、」
「違っ……!あー!!わかったよ、ほら、もういいからよ、泣け!な?」
顔を背けて永倉さんは大声でそういった。普通は泣くなっていうのに。
永倉さんの優しさに気付いた瞬間、私は声をあげて、びぃびぃと子供のように泣いてしまっていた。
迷子が父親をやっと見つけたかのように、永倉さんにしがみく。
「あ、あぁー、どうすりゃいいんだよ、ちくしょ、」
腕を首に巻きつけて、顔を胸に押し当てて。そんなふうにして泣く私の頭上で永倉さんはうめき声をあけていた。
けれど、少ししてから、またぎこちなく私の頭を彼の手が往復しはじめた。ぽんぽんと背中まで叩かれて、まるで「よしよし、」なんていわれているみたいだ。
「よ、よしよし」
………本当に言われてしまった。
それがおかしくて、私は泣き声にくすりと苦笑を交えた。
「あ、千鶴ちゃん今笑っただろ!」
ひでぇじゃねぇか!なんて言う永倉さんがおかしくて、今度は苦笑じゃすまなくなってしまう。
「あ、あは、あはは!」
「おい、千鶴ちゃん!頼む!泣くか笑うかどっちかにしてくれっ」
「あは、は!っ、ふ、ふふふ!!」
彼の出した情けない声にくすくす笑いが止まらない。
涙は、いつの間にか止まってしまった。
「ふ、はは、!ははは!!!」
私が笑い出したことにほっとしたのか、永倉さんも声をあげて笑い出した。それを聞いて、なんだかうれしくて私もまた声を大きくする。意味もない笑いが二人を包み込んだ。こんなに笑うのは一体何日ぶりだったろう?
「……ふぅ」
笑い疲れて、ため息をついた。目の端に残る涙を指で弾き飛ばす。
「もう大丈夫だな」
ぽん、と私の頭に手を乗せて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜながら永倉さんは言った。
「はい……。ありがとうございます」
みんながどうなっているのか、全くわからない状況は変わりない。それなのに心のつかえがほとんど消えてしまったような気がした。永倉さんのおかげだ。
下げた頭をあげ、永倉さんにゆっくりとほほ笑みかける。
と、永倉さんは、驚いたように目を張り、バタンと後ろに倒れた。
「え!?永倉さん!?」
覗き込もうとすると、彼は自分の腕で顔を覆った。まるで抱きしめるかのように。
「ど、どうしたんですか?」
「………ヤラレタ」
「はい?」
「やっぱ、その、あれだ。び、美人は笑っとけ!ってな!?」
「…えぇと……?」
話のつながりがわからなくて、首を傾げていると、永倉さんはあーあーとまた呟いた。
腕を解いて、頭の後ろに指を組む。隠されていた永倉さんの顔は夕日に照らされて、真っ赤に染まっていた。
「………あいつら、このままずっと帰ってこねぇといいなー。そう思わねーか?」
「ええ!?何いってるんですか!?」
「じょ、冗談だよ、冗談!」
「で、ですよね。もう、びっくりさせないでください」
「悪ぃ。だけどよ……、その、まぁ、もし―――」
空を見つめて、永倉さんは何かを言おうとした。
その瞬間、
「あーっ!!!二人ともこんなとこいたし!おーい!帰ってきたぞーっ!」
「げ!どうしたんだ千鶴!えらい髪が乱れてんじゃねーか!」
「新八さん、もしかして彼女にやらしいことしてたんじゃないですか?」
懐かしい声が土手の上から降ってきた。
「平助くん!原田さん!!良かった……っ!ご無事だったんですね!!!」
久しぶりに見る2人の姿に私は思わず手を叩いた。
「無事に決まってんじゃん!」
「土産あるぞ、千鶴」
「わあ!ありがとうございます……!」
「へっへー!俺と左之さんで選んだんだぜ?上がって来いよ!」
「おい、新八、何ぼさっと寝転がってんだよ?ちゃんと酒、買ってきてやったぞ」
叫んだ原田さんに永倉さんはうめき声をあげた。
「うぁーーー!ちくしょう!なんだってんだ!!」
寝転がっていた体勢から勢いよく起きあがると同時に、永倉さんはズンズンと土手を上っていってしまった。一歩一歩力強く踏みしめているかのようだ。
さっきは帰ってこなくていい、なんて言っていたけれどやっぱり本当はとても嬉しいんだろう。土手を上っていく後姿から、怒ったような口調とは裏腹にどこか楽しげなのが伝わってきた。
でも、さっきの言葉は何を言いかけたのだろう?続きが聞けなかったのは少し残念だ。『もし』なんだったのか、知りたいような気がした。
「千鶴ー!どうかしたか?早く上って来いよー!」
「あ、う、うん!いまいく!」
平助くんの声に私は顔をあげた。
おかしいな。何、期待してるんだろう、私。今は彼らの帰還を祝うことのほうが先なのに。
でも、さっきの永倉さんの手の感じが忘れられない。
私は頭を振ってその温もりの残像を振り払った。立ち上がろうと足に力をこめる。
と、目の前に手が差出された。
先に行っていたはずの永倉さんがそこにいた。なんだか不機嫌そうに視線をさまよわせている。
「ほら、つ、掴まんな」
「あ、ありがとうございます」
伸ばされた手にそっと自分の手を乗せる。さっき私を慰めてくれていた、暖かな手。
そう思うと、何故か心臓が変な方向に跳ねた。ドキン、ドキンとやたら大きく鼓動を刻む。
なんだか、顔が熱い。
「うし、行くぞ?」
「は、はい…っ」
変に裏返った声に頬が熱くなった。一体どうしちゃったんだろう、私。
軽く引っ張られた瞬間、体が浮いたような感じになった。改めて、自分と彼の差を認識する。彼の手は大きくて、骨ばっていて、なんだか硬くて、私のとは全然違っていて。
って、ああもう、どうしてこんなこと考えてるんだろう、私…!
不意にきゅっと握られていた手に力がこもった。俯いていた顔をあげて、前を行く永倉さんの後ろ姿を見た。
耳が赤く見えるのは気のせいだろうか。
「ち、千鶴ちゃん、その、良かったら今度………」
「あーーっっ!!!ちょっと新八っつぁん、汚ねぇ手で千鶴に触んなよなっ!」
続きの言葉は、またしても平助くんによって阻まれてしまった。
「あぁ!?あっ!こ、これはだな、別に他意は―――!」
焦ったように永倉さんが手を離そうとしたから、反射的になぜか私は強く握り締めた。
「ち、千鶴ちゃ……?」
「離せって!!新八っつぁん!」
「い、いや、俺ぁ、」
「もう、ちょっとだけ、いいですか?」
小声で、永倉さんにだけ聞こえるように呟いた。
「千鶴ちゃん……?」
「上りきるまででいいんです。あの、永倉さんの手、なんていうか、すごく安心するから、だから……」
「そ、そうか……?べ、べべべ別に、俺はかまわねーよ、ぜんぜん!」
彼は目を白黒させていた永倉さんは、かろうじでうなずいてくれた。
「ありがとうございます」
「いや、こんなもん……、その、それよか」
「あーっ!もう!!いつまでそこで突っ立てんだよ!今からそっち行くかんな!」
二度あることは三度ある、だ。永倉さんの声と、平助くんの声がかぶって、やっぱり永倉さんが何を言おうとしたのかはわからなかった。
ただ、わかったのは。
「おい、総司。俺たちが居ねぇ間になにがあったんだ?」
「僕も知りませんよ」
「ったく何で二人して突っ立ってんだよ、ほら行こうぜ」
「へ、平助くん」
平助くんが、空いていた私のもう片方の手をとって引っ張った。
「あ!平助てめぇ何一人で抜け駆けしようとしてんだよ!」
「へーんだ!左之さんは総司とでもつないどけばー?」
平助くんの手も、私の手と違って骨ばっていた。けれど……。
私はこっそり広くて大きな背中を見つめた。
ときんときんと胸が鳴る。
この切ないような、湧き出るような気持ちをもたらしてくれるのは永倉さんの手だけなんだろう。
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