涙が頬を静かに伝った。悲しいからじゃなくて、辛いからだ。吐き出した息は熱くて、胃から酸っぱいものがこみ上げてくる。わざわざ体温計を持ち出さなくても、熱は全然下がっていないことが痛いくらいにわかった。なんで風邪なんてひくかな、私のバカ。携帯の画面を見るのも気持ち悪い。わかっていても手を伸ばしてしまうのは期待してるからだ。着信じゃなくていい。メールでいい。 ドキドキしながら画面を操作したけれど、思い描いていた人からの言葉は届いていなかった。
 ……そうだよね。わたしがいなくても、柔道部は別に不二山くん一人で回せちゃうよね。
 悲しいんだか悔しいんだかわからないような、複雑な気持ちで目を瞑った。
 涙が頬を伝うのは辛いからだ。熱が辛いのか、それとも彼からは自分で思っていたよりも必要とされてないのかもしれないと思う心が辛いのかはよくわからなかった。まどろみのなかでただひたすらに彼の笑顔を思い描いていた。


私がいないと駄目だって、言わないだろうけど思っていて



 寝込んでから1週間、ようやく視界がクリアになった。たった2℃しか体温は変化していないのに、まるで世界が変わって見えるから不思議だ。固形物も喉を通るようになって、痩せた3キロがもったいないかななんて思ったりするくらいには思考にも余裕が戻った。熱を出している間はほぼ寝たきりだったから、体の筋肉が凝り固まっていて、伸びをするだけでも背中が悲鳴を上げた。
 もう明日には学校行けるかな。壁にかけた制服を見て、胸にチクリと痛みが走る。
 結局、不二山くんからはメールの1通も届かなかった。
 会ったらきっと『心配した』とか『何やってんだよ』とか言ってくれると思うんだけど、そしてそれはすごくありがたいことなんだけど、それ以上の「何か」を期待していた自分が恥ずかしくて仕方ない。もう一度ベッドにもぐりこみたくなる。
 鼻に水分がたまってきて、慌てて上を向いた。泣くのはもう嫌だ。見慣れた天井を見つめていると、少し大きめのノックが響いた。
「はぁい。なにー?」
「……起きてたんか」
「!?」
「押忍、久しぶり」
 開けられたドアの先には、制服を着た不二山くんが立っていた。
「ど、どどっ」
「ドド?」
「どうして不二山くんが…っ」
「野菜買いに来たように見えるか? 見舞いに決まってる」
「あ、そ、そっか、」
「何突っ立ってんだよ。体調はもういいんか」
「あ、うん、だいぶ」
「……………」
「……な、なに」
「嘘つくな。顔も目も赤い。それに鼻たれてるぞ」
「うそ」
「ホント」
 ニヤリと笑った不二山くんを横目に、慌てて鼻先に手を伸ばした。一瞬目に入った自分の服。しまった、わたしパジャマだ!
「ちょ、きが、ふじ、きが、」
「落ち着け」
「着替えるからちょっと待ってて!」
「何言ってんだよ。いいからおまえは寝ろ」
「や、でもほんとに体調はもう全然よくて、」
「そうだとしても、ぶり返すかもしんねーじゃん。それじゃ俺が困るから」
「え?」
「な?」
「う、うん……」
 肩先を押されて「ちょっと冷えてんじゃねーか」と不満げな声がした。そんなはずはなかった。だって彼に触れられているところが熱くてたまらない。促されるまま、再び布団に横たわる。毛布を引っ張ろうとしたら、「いいから寝てろ」と不二山くんが言って、優しく体にかけてくれた。至れり尽くせりで申し訳ない。
「熱はもう下がってるって、おばさんから聞いた」
「う、うん。そうなの。だから明日はもう学校行けるかなって」
「そうか。良かった」
 その瞳があんまり優しい形をしていたから勘違いしそうになる。毛布の先を引っ張って、きっと赤くなってる頬を隠した。
「あ、そうだ。おい、手出せ」
「?」
「これ、オマエにやる」
「………これ」
「お守り。健康祈願」
「え、で、でもコレ」
 掌に乗せられたのは、以前見せてもらったことのあるお守りと、同じものだった。不二山くんのご両親が、体が弱かった彼の為にここからは随分と遠い神社に行って、何段もの階段を上って大変な思いをしてまで買ってきてくれたというお守りに。
「もらえない、こんな大切なもの」
「うん」
「うんって、」
「だから、ほら、ちゃんと見ろ」
「え…?」
 自分のポケットから、不二山くんはもう一つのお守りを取り出した。私の手の中にあるそれは、淡いピンク色をしていたけれど、彼のは薄緑の色をしていた。
「俺のには、俺の親の気持ちがこもってる。俺を思って、俺のために買ってくれたやつだ。これはお前にやれない。やってもたぶん意味ねーし。だから」
 ピンク色のお守りごと、不二山くんが私の手を包み込んだ。
「だから、こっちは俺がお前を思ってお前のために買った」
「不二山く、」
「健康祈願。もうぶっ倒れんなよ」
「……………っ」
「ぷっ、なんて顔してんだ」
「ひど…っ、だって……」
「だってじゃない。返事は短く1回」
「……はい」
「よし」
 髪を撫でる手にはたくさんのマメが出来ていて、硬いはずなのにひどく優しく感じた。ありがとうと言いたいのに、声が詰まって言葉が出ない。それもわかってくれているような手つきだった。
「……気持ちいいんか?」
「ん……。ふふ、なんでだろうね。ちょっと硬いはずなのに、なんだか優しく感じるの」
「そっか。…………」
「…………」
「…………そろそろ、帰る。あんま邪魔すると、悪いし」
「もう?」
「……お前の顔、みたら落ち着くかなって思ってたけど全然逆だった」
「え?」
「わかんなくていい。元気そうで安心した」
「う、うん。元気だよ?」
「でもちょっと痩せたな。おばさんにネギとかしょうがとか、あとにんにくとか肉とか魚とか、体力つきそうなもん渡しといたからなんか作ってもらって食え」
「あ、ありがとう」
「押忍。俺も帰って寝る」
 顎が外れるんじゃないかって心配したくなるくらいの大きなあくびをして、不二山くんが立ち上がった。見送ろうと起こした体を、不二山くんが押し戻す。
「ぶり返されたら困るって言ったろ」
「でもせっかく」
「いい。今見送られるより、明日から毎日お前に会えるほうが大事だ」
「…………」
「明日、来いよな」
 私の頬をゆっくりと撫でたあと、柔らかく不二山くんは笑った。鞄を肩にかけて「じゃあ」と私に背を向ける。気が付いたらその背中を追いかけていた。
「……お前な、寝てろって言っ」
「不二山くん」
「…? どうかしたか?」
「あの、ね、あの、えと……っ」
「安心しろ。ちゃんと聞いてる」
「わ、わたしがいなかった間、なに、してた?」
 言ったあとにしまったと思った。何してたって、ふつうに生活をしてたにきまってるのに。いったい何を聞きたくて、こんなことを言ってしまったんだろう。 不二山くんは「んー…」とつぶやいて、俯く私の頭に手を乗せた。
「毎日お前のこと考えてた」
「え」
「飯食ってるときも柔道やってるときもだ。授業中気付いたら誰も座ってねーお前の席見てて、大迫先生に怒られた」
「そ、れは」
「そんくらいずっと考えてた。だから早く治して学校来い。俺のためにも」
「………」
「返事は」
「不二山くん」
「?」
「お守り、ありがとう」
「……ああ。効くぞ。絶対。奮発したから」
「ありがとう」
「神様にも真剣に頼んどいた」
「………ありがとう」
「だから、ほら、俺の制服じゃなくて、ちゃんと毛布つかんでろ」
「うん……」
「腹出して寝んなよ」
「寝ないよ」
「……………」
「……………」
「………帰れねぇじゃん」
「帰ってほしくないもん」
「美奈子、」
「ごめん、嘘」
 掴んでいた制服の袖を、ぱっと離した。そんなに強く掴んだつもりはなかったけれど少し皺になっていて。
「……こんだけ力出るなら大丈夫だな」
「ご、ごめ」
「冗談だ。気にすんな。今度こそ、じゃあな」
「明日ね、明日からもよろしくね」
「押忍。当たり前だろ。早く布団戻れ」
 目を細めた不二山くんは、最後にくしゃりと私の頭を撫でて部屋を出て行った。言われた通り、布団の中にもぐりこむ。泣きたいような苦しいような、なのに全然痛くない、複雑な気持ちで目を瞑った。手の中にある小さなお守りを握りしめる。柔らかな温もりと、あたたかい想いが、そこからじんわりと私の体にしみこんできたような気がした。
From lyubov