小さな島国だと思っていた。自分の居るべき場所はもっと他にあり、もっと広い舞台だと考えていた。こんなにも小さな鳥かごの中には、自分に必要なものなんて何もないと思っていた。そんな場所を自分の居場所に選んだのは、中学二年、秋の暮れだった。
今まで「設楽聖司」という名の人間を構成してきたものすべてを失った感覚に陥ったとき、求めていた広い舞台に、俺は必要とされていないんだとようやく気付いた。なら、捨ててやればいい。わざわざ自分を必要としていない舞台にあがるなんて、ただのエキストラにしか成りえないなんて、絶対に御免だった。
「これ」
差し出された手袋に、顔をあげた。
自分の居場所ではないと思っていた、その小さな島国で出会った少女が、俺をまっすぐ見上げている。その鼻は微かに赤い。
「いいよ。お前がしてろ」
「ダメです。アカギレでもしたら、ピアノを弾くのに困りますよ」
「……だったら、こうすれば平気だろ」
美奈子の手を、手袋ごと自分のコートのポケットに入れた。彼女があげた小さな悲鳴に、非難の色がこもっていなかったことにホッとする。
こんな、テレビとかでありがちなことを、まさか自分もやるなんて思ってもいなかった。でも、手が勝手に動いたんだから仕方ないだろ。自然と赤くなる頬に気付かれたくなくて、無愛想に顔を背ける。
「お前の手のほうが冷たい」
「先輩の手だって、冷たいです」
「当たり前だ。寒いんだから」
「だから車で送ってもらえばよかったのに…。お迎えに来た運転手さん、ちょっと困ってましたよ」
「いいんだよ。学校から帰るのに、車で帰ろうが歩いて帰ろうが、大した違いは出ない」
なおも言い募ろうとする美奈子の手を、コートの中できゅっと握りしめると、彼女は口をつぐんだ。その耳が赤いのは、寒さのせいだけだろうか。
制服の上から着ているコートは、実は最近になって買ったものだったりする。もともと車での通学が俺の主流だったから、コートの必要性を感じたことはほとんどなかった。校門から下駄箱までの短い距離は確かに寒かったけど、どうせ教室に入ったら脱ぐんだから、荷物になるだけだと思っていたからだ。それが3年になってコートを着始めたから、紺野なんかは不思議そうに首を傾げていた。直接、「なんで今更コートを買ったんだよ。非効率だろ」なんて言われたしな。もちろん、その質問には答えずに、「俺の勝手だろ。ほっとけよ」と返した。
だって言えるわけないだろ。美奈子と歩いて帰りたいからだ、なんて。
「……先輩」
ともすると聞き逃してしまうくらいの小さな声で、美奈子が俺を呼んだ。
「どうするか、決めたんですか」
それだけで、何のことかはピンときた。
「ああ」
美奈子が紅い唇を、軽く噛み締めた。
「音大に行く。怠けてた分を取り戻すための努力は惜しくない。それ以上を手に入れる為の努力も惜しくない。覚悟はあの日、決めたからな」
必要ないと捨てた未来。捨てたからこそ、俺はここに居た。この小さな鳥かごの中に。なのに、そこで出会った彼女が、捨てたはずの未来へと続く導を照らした。
それは同時に、彼女とは交差することのない将来を示していた。
「見てろ、とは言わない」
彼女には、彼女の夢がある。彼女だけの、未来がある。
「嫌でも目に付くようなところまで行ってやる」
返事はなかった。ただ歩きなれた通学路を、歩きなれた速度で進む。
音楽は、どこでもできる。自分とピアノ。それさえあれば、どこでだって表現できる。
一方、彼女はここにしかいない。
それがわかっていてもなお、俺が選びとった未来は。
「想い出」
少しだけ、そう呟いた瞳がうるんで見えた。それはたぶん気のせいで、俺を見上げた美奈子は、ふわりと柔らかく微笑んでいた。
「余っちゃうくらいの、たくさんの想い出を作りましょうね」
「……無理だな。余るわけ、ないだろ。いくらあっても足りない」
コートのポケットの中で、美奈子の手が小さく動いた。きっと、このコートを着るたびに思い出すんだろう。小さくて柔らかな手は、繋いだときよりもいくらか暖かくなっていた。
ずっと冬でいればいいのにな。
らしくもなく呟いた願いは、誰に叶えられるわけでもなく、美奈子だけが小さく頷いた。
White
♪